直線上に配置

 木紀行(その10)


大木・巨木・古木・名木・神木・変木・枯木・珍木・普通の木・・・
坂道散歩』で出会った様々な木々を並べてみました。



(181)一本杉の仇討ち跡
文久4年(1864)1月23日の朝に、水戸藩家臣・宮本鹿太郎とその後見人3名が、
千葉周作門下の元讃岐丸亀藩の浪人河西祐之助を父の仇として討ち、
4年越しの本懐を遂げたという仇討ちの現場。
河西は乗り合わせた舟中で宮本の父と口論となり、その命を奪ってしまい、
その後、僧となるために江戸へ下る途中であった。
河西を哀れんだ村人が供養塔を建てたが、今はそれも失われ、
「一本杉」と刻まれた石柱が立つのみ。

中山道(浦和宿→大宮宿→上尾宿)



(182)与野の大ケヤキ
樹齢300年以上で、浦和宿と大宮宿の間の半里塚の役目を果たしてきた。
2010年5月19日に倒木の危険があるとして、伐採されてしまった。
与野駅の改札口前に大ケヤキの幹の輪切りが保存され、
西口広場には後継樹が植えられている。


大ケヤキの幹の輪切り
中山道(浦和宿→大宮宿→上尾宿)



(183)与野のケヤキ並木
このケヤキは昭和42年の埼玉国体の際に植えられたもの。
中山道(浦和宿→大宮宿→上尾宿)



(184)宮原小学校のセンダン(栴檀) 「説明板
開校(明治6年)当時の教師が郷里の高知から苗を持ってきて植えた木。
中山道(浦和宿→大宮宿→上尾宿)



(185)多聞寺のムクロジ
樹齢200年、実は羽根つきの羽の先の玉に利用されていたそうだ。
また石鹸としても使え、煎って食べることもできるという。


写真は失敗した。
中山道(上尾宿→桶川宿→鴻巣宿)



(186)新島の一里塚跡のケヤキ 「説明板
宝暦6年(1756)の『道中絵図』では「榎二本」とあるが、
今立っているのは、東塚の樹齢300年以上の「ケヤキ」
中山道(鴻巣宿→熊谷宿)



(187)神明社の大杉(中山道大湫宿)
樹齢1300年以上、太田南畝の「壬戌紀行」に
「駅の中なる左の方に大きなる杉の木あり、
その元に神明の神社の宮を建つ」とある神木。
中山道(大井宿→大湫宿→細久手宿)



(188)坪内逍遥ゆかりのムクノキ 「説明板
中山道(太田宿→鵜沼宿→加納宿)


(189)加納八幡神社のクスノキ
『中山道(太田宿→鵜沼宿→加納宿)』



(190)みかえりの松(二代目) 「説明板
深谷宿の遊郭(英泉画)の遊女と別れた旅人が、振り返りつつ江戸へ向った松。
初代の写真
中山道(熊谷宿→本庄宿)



(191)金鑚(かなさな)神社の神木のクスノキ 「説明板
中山道(本庄宿→新町宿)



(192)大六天神社の樫の木 「説明板
天覧山・多峰主山



(193)飯能笹 「説明板
天覧山・多峰主山



(194)槍掛けの松(清亮寺) 「説明板
関東大震災(大正12年)以前に撮影された写真。
枝の先端下が水戸街道。この松も昭和20年頃に枯れてしまったそうだ。
水戸街道を往来した水戸の黄門さんの粋な計らいで、
大名行列はこの松の木に槍を立て掛けたという。


槍かけだんご」店
昭和27年の創業
日光街道(千住宿→草加宿)



(195)徳川家光手植えの松(国土安穏寺)
『五街道分間延絵図』に描かれている松という。
日光街道(千住宿→草加宿)



(196)草加松原松並木(百代橋上から
日光街道(千住宿→草加宿)


今もこのままか?



(197)有瀧家のタブノキ 「説明板
樹齢400年以上
日光街道(越谷宿→粕壁宿)



(198)浅間神社のケヤキ
樹齢約600年、越谷市の有形文化財
日光街道(越谷宿→粕壁宿)



(199)近津神社のイチョウ
2001年5月27日の不審火で焼失した社殿は再建された。
イチョウも黒焦げになったが自力で再生した。
この逞しい生命力を見習うべし。「火災後の写真
日光街道(粕壁宿→杉戸宿→幸手宿)』



(200)愛宕神社のイチョウ
今は主幹を途中で切られ、縮まって傾いて立っているそうだ。
樹齢は不明らしい。
日光街道(粕壁宿→杉戸宿→幸手宿)』


直線上に配置

 木紀行(その11)
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