スコットランド歴史散歩
【Map】
「交響曲第3番(スコットランド)・メンデルスゾーン作曲:【YouTube】
年 代 | 事 項 |
紀元前2600年~1900年頃 | 鐘状ビーカー文化 (Bell Beaker culture)、スコットランドで最初の住人、「ビーカー族」? |
紀元前1000年頃 | 大陸からケルト系のピクト人(Picts)が渡来(カレドニア地方) |
43年 | ローマ帝国皇帝クラウディウス、ブリテン島南部に上陸 |
84年 | ローマ帝国の軍人アグリコラ、カレドニアに遠征し「モンス・グラウピウスの戦」で、カルガカス率いる?ピクト人に勝利 |
122年 | ローマ帝国皇帝ハドリアヌス、「ハドリアヌスの長城」建設 「Hadrian's Wall」 【Map】 |
142年 | ローマ帝国皇帝アントニヌス、「アントニヌスの長城」建設(~144年) 「Antonine Wall」 【Map】 |
164年 | ローマ軍、ハドリアヌスの長城へ撤退し、アントニヌスの長城を放棄 |
208年 | ローマ帝国皇帝セヴィルス、ピクト族領に侵攻 → ピクト人のゲリラ戦による抵抗で和睦、撤退(211年) |
397年 | ピクト人のニニアンがホウィットホーン(Whithorn)にカンディダ・カサ(教会)を建てる。 【Map】 「St Martin and St Ninian Church」 |
410年 | ローマ人がブリテン島から撤退 |
5世紀 | ピクト人のアルバ王国(Alba)成立(7つの小王国から上王が選ばれた) |
500年頃 | アイルランド系の「スコット人」、ハイランド南部に「ダルリアダ王国」建設(ファーガス2世)→ブリテン島北部が「スコット人の国」、「スコットランド」→先住のピクト人のアルバ王国との抗争・混血を繰り返す。 |
550年頃 | アングル人、ブリテン島東南部に移住 |
563年 | 聖コロンバ(ケルト系修道院制度の父)がアイルランドからアイオナ島に渡り、キリスト教の布教が始まる。→スコット族とピクト族の融和、混血が進む。「ケルト十字架」・「アイオナ修道院」(Panoramic view) 【Map】 |
565年 | コロンバがスコットランド北部での布教活動中にネス湖でネッシーと遭遇? 【Map】 |
637年 | ダルリアダ王ドナルド4世、ピクト族のクライスナイ王コンゴール・クレーンのアイルランド遠征を支援し、ラス(アイルランド)に攻め入る。(Battle of Magh Rath) |
664年 | ウイットビーの教会会議(イングランド・ケルト系教会に対するローマ・カトリック系教会の勝利) 港町「ウィットビー」 【Map】 |
685年 | 「ダニチェン(Dunnichen)?(ダン・ネクテイン・DunNechtain)の戦」で、ノーサンブリア人(アングロ・サクソン人)がピクト人に敗北 【Map】(Dunnichen) |
8世紀末 | ヴァイキングの襲来始まる(~1263年) |
793年 | ヴァイキングが北部イングランドのホーリー島(Holy Island)のリンデスファーン修道院を襲撃 【Map】 |
834年 | ピクト族(アルバ王国)との争いでダルリアダ王アルピン、捕縛され処刑される。 |
839年 | ケニス・マカルピン、ダルリアダ王に即位(ケニス1世) |
843年 | ケニス・マカルピン、ピクト人の王を兼任(スコット人とピクト人の統一王国の「アルバ王国」建国) |
ケニス・マカルピン、宮廷をダンスタフネイジ 【Map】 からスクーンへ移す。 | |
846年 | ケニス・マカルピン、新首都スクーンのスクーン宮殿の「スクーンの石」(運命の石)の上で戴冠式 【Map】 |
ケニス・マカルピン、ダンケルドをキリスト教信仰の中心地とする。 「ダンケルド大聖堂」・「 Historic view of Dunkeld 」 【Map】 |
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859年頃 | ケニス・マカルピン死去、タニストリー(ケルト文化圏の王位・族長位継承制度)により、弟のドナルド1世即位 「スコットランドの君主一覧」(アルピン朝) |
863年 | ドナルド1世、ブリトン人との戦で戦死? スクーンで殺害された? →コンスタンティン1世即位 |
877年 | コンスタンティン1世、スカンジナビアの海賊との戦で戦死→エイ即位 |
878年 | エイ、スクーンの北で殺害→ヨーカ?、ギリク?即位 |
889年 | ヨーカ(ギリク)廃位→ドナルド2世即位 |
900年 | ドナルド2世死去で、コンスタンティン2世即位→943年、南部における失地で廃位 |
943年 | マルカム1世(Malcolm I)即位 |
954年 | マルカム1世、ノーサンブリア領をサクソン軍に奪われ、国境の戦いで敗れて殺害→インダルフ即位 |
962年 | インダルフ、スカンジナビア軍に敗れ殺害→ダフ即位 |
967年 | ダフ、エルギンの西のフォレスで従兄弟のカリンに殺害→カリン即位 【Map】 |
971年 | カリン、ファイフの豪族ロチャードの娘をかどわかしたとして殺害→ケニス2世即位 |
ケニス2世、ダンケルドを流れるテイ川(River Tay)を越えて北伐に乗り出す。【Map】 南のエジンバラも支配下に収める。 |
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995年 | ケニス2世、マーンズ領主の夫人フェネリアの差し金(息子を殺された恨み)で殺害される。→コンスタンティン3世即位 |
997年 | コンスタンティン3世の戦死で、ケニス3世即位 |
1005年 | モンジーベアードの戦でケニス3世を殺害し、マルカム2世(破壊王)即位。 「Loch Monzievaird 」【Map】 |
1018年 | 「カラムの戦」で、マルカム2世がロジアンのアングロ・サクソン人に勝利 【Map】 ロジアン(ストラスクライド王国)をスコットランド領に併合(ダンカンがストラスクライド王を継承)→スコウシア王国→スコットランド王国 ストラスクライド王国にはクライド川とソルウエイ川に挟まれた領域のほかに、バンバラのエアルドマンealdorman(後の伯(earl)の起源)が支配していた飛び地のカンブリアも入っていたと思われる。 |
1034年 | マルカム2世、グラームズ城の近くで反対派に殺害される。 【Map】 ダンカン1世即位(直系による継承制度)(アサル朝)→1290年まで |
1039年 | ダンカン1世、ダラム(イングランド北部、ノーサンブリア領の要衝地)への侵攻が失敗 【Map】 |
1040年 | 従兄のダンカン1世を殺害し、マクベス即位 「コーダー城」(Cawdor Castle) (戯曲「マクベス」) 【Map】 |
1043年 | マクベス、アルピン王家の血を引くバンクォウを殺害 |
1045年 | マクベス、ダンケルドの戦で実力者のアサル領主・クリナン(ダンカン1世の父)を殺害 |
1050年 | マクベス、ローマへ巡礼旅行 |
1054年 | マクベス、「スクーンの戦」で、ノーサンブリア伯シューアドの援護を受けたマルカム・キャンモア(大頭)に大敗 |
1057年 | マクベス、「ランファナンの戦」(アバディーンの西方)で戦死 【Map】 →ルーラッハ即位 |
マルカム、インヴァネス城を建造 【Map】 | |
1058年 | ルーラッハ、マルカム・キャンモアによりストラスボーで殺害→マルカム3世(マルカム・キャンモア)即位、ダンファームリンに首都を移す。 「ダンファームリン修道院」 【Map】 マルコム3世、オークニー諸島領主でオークニー伯シーガードの長男トールフィンの未亡人で、ノルウェー王の血を引くイーンガボーグを王妃とする。(~1065年死去) |
ハイランドゲームズの発祥(マルカム3世が足の速い伝令を選び出すためのレースを催したという伝承) | |
1066年 | ノルマン人、イングランドに侵入 「ノルマン・コンクエスト」(ノルマン征服) |
「ヘースティングスの戦」で、ノルマンディー公ギヨーム2世(征服王ウィリアム1世)がイングランド王ハロルド2世に大勝→ノルマン王朝(~1154年) 【Map】 | |
1068年 | サクソン王家の娘、マーガレット、ノルマン征服からハンガリーへの逃亡の途中で海難に会いアルバ国へ亡命 |
1069年 | ウィリアム1世、イングランド北部で大虐殺(北部の蹂躙)を繰り広げる。 |
1070年 | マルカム3世とサクソン王家のマーガレット結婚 |
王妃マーガレット、ダンファームリン修道院を建設、教会の行事や典礼をケルト式からローマ式に改革した。マーガレットは1251年、聖者の列に加えられ、「セント・マーガレット」と呼ばれることとなる。 | |
1072年 | ウィリアム1世、北征を開始する。マルカム3世、「アバネシーの和約」でイングランドへの臣従を誓う。長男ダンカンを人質に取られる。【Map】 「The village of Abernethy」 |
1093年 | マルカム3世、5度目のイングランド侵攻でアニク城で戦死 【Map】 →ドナルド3世(マルコム3世の弟)即位 |
1094年 | ダンカン(2世)、イングランド王ウイリアム2世の援助でドナルド3世を破り即位→(半年後)ドナルドがダンカン2世を殺害し王位を奪回(~1097年) |
1097年 | エドガー(平和愛好者・ダンカン2世の異母弟)、イングランド王ウィリアム2世の援助を受け、ドナルド3世を逮捕し王位に就く。 |
1098年 | ノルウェー王・マグヌス3世、オークニー諸島、マン島、ヘブリディーズ諸島を征服→スコットランド(エドガー王)はマグヌスを『島嶼部の王』(King of Isles)として承認 |
1107年 | エドガー王、エジンバラ城で死去、ダンファームリン修道院に埋葬→アレグザンダー1世(獰猛王(Fierce))即位(~1124年) |
アレグサンダー1世、ヘンリー1世の娘(庶子)のシビルを王妃に迎える。 | |
1115年 | アレグサンダー1世、キンカーディンシャー(現在のアバディーンシャー)地方の反乱鎮圧 【Map】 |
1124年 | アレグサンダー1世、スターリングで死去→デイヴィッド1世即位(~1153年) |
デイヴィット1世、聖人ケンティガーンが建てたグラスゴーの教会の地に司教座を置く→後にグラスゴー大聖堂 【Map】 エジンバラ城内に母の聖マーガレット教会堂を建設 バラ(勅許自治都市)の創設(スターリング・パース・ダンファームリン・エジンバラなど) |
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1128年 | ホリールード大聖堂建設 【Map】 |
1136年 | デイヴィッド1世、メルローズ修道院建設(墓地には後年、王ロバート1世の心臓が埋葬された) 【Map】 |
デイヴィット1世、イングランド王位の継承争い(マチルダとスティーヴン・無政府時代)に介入し、イングランド領に侵攻→1140年に和議でノーサンバーランド、カンバーランドなどの支配権を獲得 | |
1138年 | ジェッドバラ修道院建設 【Map】 |
1140年 | デイヴィッド1世、イングランドより得たカーライルの貨幣鋳造所で、スコットランドで初めてコインを鋳造、流通。【Map】 |
1150年 | ヒュー・デ・モーヴィルがドライバラ修道院建設 【Map】 |
1153年 | デイヴィット1世、カーライルで死去→マルカム4世(the Maiden(未婚王・処女王)」即位 |
1156年 | サマーレッド・マクギレブリデ (初代島嶼の王)、アイラ島沖の海戦で勝利し、インナー・ヘブリディーズを領有、支配 |
1157年 | マルカム4世、イングランド王ヘンリー2世の要求で、ノーサンバーランドとカンバーランドの領地の支配権を放棄 |
1159年 | マルコム4世、ヘンリー2世のフランス遠征に随行 |
1160年 | セント・アンドルーズ大聖堂建設 【Map】 マルコム4世、臣下のノルマン貴族にハイランド地方の部族を討伐させる。(~1164年) |
1163年 | ペイズリー小修道院創建(1245年に修道院に昇格) 【Map】 |
1164年 | サマーレッド、マルコム4世に戦を挑みクライド湾まで攻め込むが、裏切りで暗殺 【Map】 |
1165年 | マルカム4世、ジェッドバラで死去、弟のウィリアム1世(獅子王)即位 ウイリアム1世、ヘンリー2世のフランス遠征に随行 |
1168年 | ウイリアム1世、仏王ルイ7世と秘密裡に仏蘇同盟を誓い合う。→1295年の「古来の同盟」へ |
1174年 | ウイリアム1世、ノーサンバーランドに侵攻→失敗してアニック 【Map】で捕縛、イングランド王に臣従するファレーズ条約を強いられる。 |
1180年 | 王許自治都市のインヴァネスを市壁(溝と木柵)で囲う。 |
1189年 | ウイリアム1世、イングランド王リチャード1世に1万マーク(merks)を支払い、臣従解除のカンタベリー協定を結ぶ。 |
1192年 | スコットランドの教会がイングランド大司教管轄下からローマ法皇管轄下に入る。(法皇ケレスティヌス3世の教書発布) |
12世紀末 | グラスゴー大聖堂建設 |
1214年 | ウイリアム1世、スターリングで死去しアーブローズ修道院に埋葬 《地図》 → アレグザンダー2世即位 |
1215年 | イングランド王ジョン、「マグナ・カルタ」に調印 |
1219年 | アレグサンダー2世、ヘンリー3世とスコットランド南部とイングランド北部の戦の休戦協定締結 |
1221年 | アレグサンダー2世、ヘンリー3世の妹・ジョアンと結婚 |
1224年 | エルギン大聖堂建設 【Map】 |
1229年 | コミン(カミン)氏族がラスベン城を築造 【Map】(現Ruthven Barracks) |
1236年 | イングランドとの国境を東部のツイード【Map】と、西部のソルウエイ湾【Map】を結ぶ線に決定(ヨークで条約締結) |
1243年 | セント・ジャイルズ大聖堂 建設 【Map】 |
1249年 | アレグサンダー2世、ノルウェーからのヘブリディーズ諸島の奪還を目指して、スコットランド西部へ軍を進めたが、その途中、ケレラ島(Isle of Kerrera)で死去 【Map】 → アレグザンダー3世即位 |
1250年頃 | インヴァネスのネス川に架橋 【Map】 |
1251年 | アレクサンダー3世、イングランド王ヘンリー3世の娘マーガレットと結婚 |
1255年 | アレグザンダー3世は親政に乗り出し、摂政ジョン・ベイリャル(スコットランド王ジョン・ベイリャルの父)と王妃護衛職ロバート・ド・ロスを追放 |
1261年 | ヘブリディーズ諸島をノルウェーからの奪還 |
1263年 | 「ラーグスの戦」(クライド湾)でアレグザンダー3世が率いるスコットランド軍が、ノルウェー王(ヴァイキング)ホーコン4世を破る。「あざみ伝説」(ラーグス伝説) 【Map】 |
1266年 | ホーコンの後継者マグヌス6世と「パース条約」締結、ヘブリディーズ諸島は正式にスコットランド領となる。 |
1275年 | 王妃マーガレット死去 |
1285年 | アレグサンダー3世、仏のヨランドと結婚 |
1286年 | 王妃ヨランド(マーガレットの後添え)の待つ、キングホーンの離宮(Kinghorn Castle)【Map】へ向かう途中で落馬してアレグサンダー3世死亡。孫の3歳の「ノルウェイのおとめ」マーガレットがノルウエイの王宮で即位 |
1289年 | エドワード1世、皇太子エドワードと女王マーガレットとの婚約を迫る。→翌年、スコットランドが合意、婚姻協定書 |
1290年 | ノルウエイからスコットランドへの船旅の途中で、女王マーガレットは7歳で死亡し(アサル朝断絶)→スコットランド王空位(13人の王位継承権者) |
1291年 | 王位をめぐってイングランド王エドワード1世の推すジョン・ベイリアルやロバート・ブルース(ロバート1世の祖父)が争う。「大訴訟」 |
1292年 | ベリック城【Map】でのイングランド王エドワード1世の裁定(ノーラムの裁定)で、ジョン・ベイリアル即位、「スクーン石」(運命の石)の上で戴冠し、エドワード1世に臣従する傀儡王となる。(「Toom Tabard 」 "empty coat"(紋章無しの陣羽織))), |
1294年 | ギエンヌ戦争(イングランドとフランスの間 ~1297) |
1295年 | ジョン・ベイリアル、エドワード1世に反抗し、スコットランド王国の共同体(司教・伯爵・男爵の連合体)とフランス王フィリップ4世との間に同盟締結(「古来の同盟」) |
1296年 | ジョン・ベイリアル、イングランド北部に侵攻→逆にエドワード1世、スコットランドに侵攻しベリックの町【Map】を襲い、「ダンバーの戦」【Map】でベイリアルを破り、王座から降ろし「スクーンの石」(運命の石)をロンドンへ持ち去る。→スコットランド王空位(~1306年まで) |
1297年 | 「スターリング・ブリッジの戦」で、ウイリアム・ウォリスがイングランド軍に勝利、イングランド軍の指揮者、ヒュー・ド・クレッシンガムは皮剥ぎにされる。【Map】→「スコットランド独立戦争」 |
1298年 | 「フォルカークの戦」【Map】でウォリスは敗れでフランスへ逃亡 |
1303年 | ウォレス、スコットランドへ帰国 |
1304年 | エドワード1世にスコットランド貴族が臣従を誓う。 |
1305年 | ウォレスはかつての部下だったダンバートン総督ジョン・ド・メンティスの裏切りでイングランドに引き渡され、ロンドンで、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑される。 アメリカ映画『ブレイブハート』 |
1306年 | ロバート・ブルース、グレイフライアーズ教会(ダンフリーズ)で、スコットランド王位を争うジョン・カミン(Clan Comyn)を刺殺 【Map】 |
法皇クレメンス5世、ロバート・ブルースを破門→ロバート1世としてスコットランド王位を主張→「スクーンの石」の跡地で戴冠式 | |
ロバート1世、メスヴァンの戦でエドワード1世軍に敗北 【Map】 | |
1307年 | ジェイムス・ダグラス(ロバート1世の副官)が、イングランド軍からダグラス城【Map】を奪回、 「グレントゥルールの戦」【Map】、「ラウダンヒルの戦」【Map】でイングランド軍に勝利 |
スコットランドへ出陣の途中で、エドワード1世病死→皇太子エドワード、ロンドンへ引き上げる→エドワード2世即位 | |
1309年 | ロバート1世、セント・アンドルーズで初めての議会を開く。【Map】 |
1313年 | ロバート1世、マン島のキャスルタウンのルシェン城 (Castle Rushen) を陥落する。 【Map】 |
1314年 | 「バノック・バーンの戦」(Battle of Bannockburn)で、ロバート1世軍がエドワード2世軍に勝利 【Map】 |
1315年 | ロバート1世、弟のエドワード・ロバーツを援けるためにアイルランドへ侵攻→翌年帰国 |
1318年 | 「ファウグハートの戦い」 (Battle of Faughart) で、エドワード・ロバーツが殺される。 【Map】 |
ロバート1世、ボーダーズ地方を確保→全イングランド軍はスコットランドから駆逐される。 | |
セント・アンドルーズ大聖堂完成→16世紀の宗教改革で破壊、廃墟 【Map】 | |
1320年 | スコットランド貴族、教皇ヨハネス22世にロバート1世を支持する「アープロウス宣言」(スコットランド王国の独立宣言)を送付 |
1322年 | ロバート1世、イングランドのヨークシャーまで侵攻 【Map】 |
1326年 | エドワード2世、王妃イザベラ("She-Wolf of France"「フランスの雌狼」)が起こしたクーデターで幽閉され翌年に廃位、、王妃の密命で殺害される。 |
1328年 | 「ノーサンプトン条約」で、エドワード3世がロバート1世のスコットランド王の権利を認め、スコットランドの独立を承認 |
ロバート1世の長男・デイヴィット(4歳)と、エドワード2世と王妃イザベラの次女・ジョアン(7歳)が結婚 | |
1329年 | ロバート1世死去で、長男のデイヴィット2世が5歳で王位継承(摂政・初代マリ伯ランドルフ卿 ~1332年)) |
エドワード3世、「アープロウス宣言」を破棄 | |
1330年 | ジェイムス・ダグラス、ロバート1世の心臓を聖地に埋葬に行く途中、アンダルシアでムーア人との戦に巻き込まれて殺害される。 |
1332年 | エドワード・ベイリアル(ジョン・ベイリアルの息子)、エドワード3世の後押しでスコットランドに侵攻→摂政・初代マリ伯ランドルフ卿死去 |
スコットランド王軍がダプリン・ムーアの戦(Battle of Dupplin Moor)【Map】で破れ、摂政の8代マー伯ドナルド・マーは敗死。エドワード・ベイリアルがスコットランド王としてスクーンで戴冠式 | |
アーチボルト・ダグラス(ジェームス・ダグラスの弟)、エドワード・ベイリアル軍をアナンで破る。【Map】 | |
1333年 | エドワード3世、ベリクの北の「ハリダン・ヒルの戦」でディヴィット2世軍を破る。【Map】 アーチボルト・ダグラスは戦死、デイヴィットはフランスへ逃亡 |
エドワード3世、ベイリアルをスコットランドの傀儡王とする。→デイヴィット2世と2人のスコットランド王 | |
1334年 | デイヴィット2世、王妃ジョアンとフィリップ6世を頼ってフランスに逃れる。(~1341年)→ロバート・スチュワートがスコットランドの摂政 |
1336年 | エドワード3世、ブレア城を訪れる。【Map】 アバディーンを焼き討ちにする。【Map】 |
1337年 | 「百年戦争」始まる。「スコットランド問題」 |
1338年 | ロバート・スチュワート(摂政・後のロバート2世)、「ダンバーの戦い」で「ブラック・アグネス」(初代マリ伯ランドルフ卿の娘)の活躍によりイングランド軍からダンバー城を防衛 【Map】 「城を守るBlack Agnes」 |
アレグサンダー・ラムジー卿がイングランドに占拠されていたロクスバラ城を攻めて陥落させる。【Map】→再度、エドワード3世軍に奪われる。 | |
1341年 | デイヴィット2世、スコットランドに帰国し親政開始 |
1346年 | デイヴィット2世、「ネヴィルズ・クロスの戦」【Map】で敗北し、捕虜としてハンプシャーにあるオディハイム城に幽閉(~1357年)【Map】 |
1349年 | 「黒死病」(ペスト)が蔓延→イングランドでは人口の激変、戦力の低下 「ペストによって死屍累々となった街」 |
1355年 | スコットランド軍、ベリクの南のネズビット(Nesbit)を攻撃、占領 |
1356年 | エドワード3世、エジンバラ、ハディングタンに進撃 →スコットランドの直接統治を宣言 |
1357年 | エドワード3世、ベリックでスコットランドとの休戦協定を結び、10万マーク(6万ポンド位?)の身代金を10年間で支払うことでデイヴィット2世を釈放、デイヴィット2世、スコットランドへ帰国 |
1363年 | デイヴィット2世、スコットランドの生活が不満でロンドンへ戻る。 |
1364年 | エドワード3世の傀儡、エドワード・ベイリアル、ヨークシャーで死去 |
1371年 | デイヴィット2世、エジンバラで死去し、摂政で甥のロバート2世即位。→「スチュワート王家」(~1714年) |
1375年 | ダグラス家のタンタロン城建造→1651年、クロムウェル軍により包囲・落城 【Map】 |
1388年 | ダグラス家(スコットランド)とパーシー家(イングランド)のオッターバーンの戦 この戦で2代ダグラス伯が戦死 「Otterburn Castle 」 【Map】 |
1390年 | ロバート2世、ダンドナルド城 【Map】で死去、長男のロバート3世即位、弟のロバート(ロバート2世の3男)が補佐・代理役 |
ロバート2世の4男、アレグサンダー・スチュワート(バドノッホの狼)、エルギン大聖堂を焼き払う。「the burning of Elgin Cathedral.」 | |
1394年 | ロバート3世、親政を開始 |
1398年 | ロバート3世、長男のデイヴィットをスコットランド王国統監に任命、ロスシー公に除爵、弟のロバートをアルバニ公に除爵 |
1401年 | デイヴィット、不品行(あるいはアルバニ公の策略?)によりアルバニ公ロバート(ロバート2世の3男)によりフォークランド宮殿に監禁【Map】 →翌年死亡、アルバニ公による暗殺の噂、疑惑 |
1402年 | ノーサンバーランドでのイングランド軍とスコットランド軍のホームドンの丘の戦(シェイクスピアの「ヘンリー四世第一部」 【Map】 |
1406年 | ロバート3世の3男の世嗣ジェイムズ、フランスへ渡る途中でイングランド軍に捕縛、ヘンリー4世に引き渡される。 アルバニ公あるいは、マーチ伯ジョージ・ダンバーの陰謀か? |
ロバート3世、ダンドナルド城で死去、ロンドンに抑留中のジェイムズが国王となるが、叔父のアルバニ公が摂政となり実権を握る。 | |
1409年 | 摂政アルバニ公、最強力貴族の4代ダグラス伯アーチボルト・ダグラスと「相互支援、防御協定」を結ぶ。 |
1411年 | インヴァネスがアルバニ公に反対する「島嶼の領主」ドナルドの攻撃、焼き討ちにあう。【Map】 「ハーローの戦」( Battle of Harlaw) マー伯アレグサンダー・スチュワート(パデノッホの狼の息子)の活躍で防戦 |
1412年 | セント・アンドルーズ大学創立 【Map】 |
1420年 | アルバニ公死亡で息子のマードック(2代アルバニ公)が支配権を握る→反アルバニ勢力(ダグラス一族ら)が強まり、国王ジェイムズの帰還を求める声が強まる |
1424年 | ジェイムズ、ヘンリー5世の従妹でジョン・オブ・ゴーントの孫娘のジョウン・ボーフォートと恋に落ち結婚。ジェイムズは恋文代わりの詩「王の献辞」(The Kingis Quair)を彼女に送っている。 |
1424年 | ジェイムズがイングランドから帰国し、スクーンで戴冠しジェイムズ1世となる。議会(「Old Court」と呼ばれた)を招集し、「条令第一号」を上程 マードックはじめアルバニ公爵家はジェームズによって粛清される。 |
1427年 | ジェイムス1世、インヴァネスでの氏族長との会議で、ハイランド地方の豪族アレクサンダー・マクドナルドらを拘束→報復でインヴァネスが再び焼かれる。 |
1430年 | ジェームス1世、5代ダグラス伯アーチボルトを逮捕 |
1431年 | アレクサンダー・マクドナルドを釈放 |
1436年 | ジェイムス1世の長女マーガレット、フランスの皇太子ルイ(後のルイ11世)と結婚 |
1437年 | ジェイムズ1世、パースのドミニコ修道院で、ロバート・グラハム卿、叔父のアソール伯ウォルター・スュチュワートらに暗殺 【Map】 (王妃の女官のCatherine Douglas(後にケイト・バーラスと呼ばれた)は、扉を腕で押さえて王を守ろうとした)→ ジェイムス2世がホリールード修道院で6歳で即位。【Map】 (ブラック)ダクラス家(5代ダグラス伯アーチボルト)が実権を握る。(アンガス伯ダグラス家が「レッド・ダグラス」) |
1439年 | 5代ダグラス伯アーチボルト病死 |
1440年 | ウィリアム・クライトン(エジンバラ城の城代)と、リヴィングストン(スターリング城の城代)と、ジェイムス・ダグラス(あだ名「百貫」(the Gross)・後の7代ダグラス伯)の策謀の「黒い晩餐」(Black Dinner)で、6代ダグラス伯ウィリアムとその弟が殺害される。→ダクラス伯家(ブラック)の崩壊が始まる。 |
1443年 | 7代ダグラス伯ジェームス・ダグラス死去 |
1446年 | ロスリン礼拝堂建設(映画「ダヴィンチ・コード」のロケ地) 【Map】 |
1449年 | ジェイムズ2世、フランスのグェルダー伯の娘マリーと結婚、親政を開始 |
ジェームス2世、リヴィングストンをブラックネス城に監禁(翌年処刑)【Map】、クライトンを要職から排除 | |
1450年 | 8代ダグラス伯ウィリアム、ローマへ巡礼に出る。 |
クライトンはダグラス氏族のロックマーベン城 を攻撃、落城させる。 | |
1451年 | グラスゴー大学創立 【Map】 |
1452年 | ジェイムズ2世、8代ダグラス伯ウィリアムをスターリング城【Map】で刺殺、9代ダグラス伯(last of the 'Black' earls of Douglas)はダグラス城で投降。【Map】 王党派はブレッチンの戦いなどで勝利 【Map】 |
1455年 | ブラック・ダグラス伯爵派、アーキンホームの戦で、ジェイムズ2世側の(レッド・ダグラス)・アンガス伯ジョージ・ダグラスらに敗れて崩壊 「The Douglas Archive」(Battle of Arkinholm ) 【Map】 →9代ダグラス伯、イングランドに逃走 |
ジェイムズ2世、イングランドに侵攻し、「バラ戦争」に介入 | |
1457年 | ジェイムス2世、「ゴルフ禁止令」(ゴルフにふけって弓術の鍛錬を怠る貴族たち)を出す。 |
1460年 | ジェイムズ2世、イングランドに占領されていたロクスバラ城の包囲戦のさなかに、大砲(モンス・メグ)の暴発により死亡 【Map】(フロアーズ城の近く) →ジェイムズ3世が8歳で即位・摂政会議(セント・アンドルーズ司教のケネディ主座大司教が支配)による統治 |
1462年 | ロス伯マクドナルド(John of Islay, Earl of Ross, Lord of the Isles)と9代ダグラス伯ジェームスが、スコットランド占領を画策し、エドワード4世の支援を求めて、「ウエストミンスター・アードニッシュ協定」(Treaty of Westminster )を結ぶ。 |
1463年 | 摂政会議はエドワード4世と休戦(ランカスター派(バラ戦争)への支援を止める) |
ジェイムズ3世の母で後見人のメアリ・ゲルダースが死去 | |
1465年 | 摂政のケネディ主座大司教が死去→ボイド卿ロバート一派実権を握る。 |
1469年 | ジェイムズ3世、ノルウェイ・デンマーク・スウエーデン王クリスティアン1世の娘マーガレットと結婚。持参金代わりとしてオークニー諸島とシェトランド諸島を獲得→ボイド一派の一掃を決意 |
1472年 | セント・アンドルーズに大司教区設置 |
1476年 | ジェイムズ3世、マクドナルド一族(諸島部の宗主)を討伐 |
1478年 | ジェイムス3世の廃位を計画した弟のマー伯ジョンは、事前に発覚しクレイグミラー城に収監され死亡、弟のオルバニ公アレグサンダーはエジンバラ城に収監された。→脱走してフランス→イングランドへ渡り、エドワード4世に支援を要請 |
1482年 | エドワード4世の援軍で、アレグサンダーとダグラス伯軍が、ベリックを包囲 |
ジェイムス3世、5代アンガス伯アーチボルト・ダグラス(レッド・ダグラス・Bell the Cat・猫に鈴付け)らにエジンバラ城に幽閉される。側近のロバート・コホランらは処刑される。→ジェームス3世は翌年解放 | |
1484年 | ジェイムス3世の弟、オルバニ公アレグサンダー、ダグラス伯軍とかつて「ブラック・ダグラス」の拠点だったロックマーベン城の奪回に向かう。→ジェイムス3世の反撃で失敗 【Map】→ダグラス伯は捕らえられ、アレグサンダーは再びフランスに逃亡。 |
1485年 | イングランド王ヘンリ7世即位、チューダー朝を創立 |
1488年 | 「ソーキバーンの戦い」(スターリングの南約2マイル)でジェイムズ3世、初代ヒューム卿、5代アンガス伯ダグラス、アーガイル伯コリン・キャンベルらのスコットランド貴族の反乱軍に敗れ死亡→ジェイムス4世即位(~1513年) 「The Douglas Archive」(Battle of Sauchieburn ) 【Map】 |
1490年代 | ジェイムズ4世、ジョン・マクドナルドのイール卿剥奪などハイランド地方、諸島部への統制を強化。イール卿位は王室のものとなる。 |
1491年 | ジェームス4世、ヘンリー7世と謀った謀反の疑いでアンガス伯のタンタロン城【Map】を包囲、幽閉し、ハーミテージ城【Map】を没収。→以後、アンガス伯は忠誠を誓い、ジェームスに従う。 |
1492年 | スコットランドの首都がパースからエジンバラへ遷都 |
1494年 | フランスのシャルル8世、ナポリを占領→ローマ法皇、ドイツ皇帝らが「神聖同盟」結成 |
1495年 | アバディーン大学創立(公式サイト) 【Map】 |
ジェームス4世、イングランドの王位僭称者パーキン・ウオーベック(塔の王子)をスターリング城に迎える。 | |
15世紀代 | 「カーリング」発祥 |
1502年 | イングランドとの和平条約締結 |
1503年 | ジェイムズ4世とヘンリ7世の娘マーガレット(ヘンリ8世の姉)が、ホリールード宮殿で結婚 |
1505年 | 戦艦グレイト・マイケル号建造 |
1507年 | スコットランドに印刷術導入 |
1509年 | イングランド王ヘンリ8世即位 |
アーカート城、ジェイムス4世からジョン・グラントに下付 【Map】 | |
1513年 | フランスが神聖ローマ帝国らの同盟国軍の攻撃を受ける。→ルイ12世がジェームス4世に支援を要請 |
「フロッドンの戦」でイングランドに敗れ、ジェイムズ4世死亡→ジェイムス5世が生後1年5ヶ月でスターリング城で即位【Map】 摂政時代(幼年期には王母マーガレット、次いでフランスから呼び寄せた2代アルバニ公・ジョン・スチュアート) |
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エジンバラにイングランドへの抵抗と防衛のための「フロッドンの壁」が築かれる。 | |
1514年 | 王母マーガレット、6代アンガス伯アーチボルト・ダグラス(新英派)と再婚→1527年に離婚し、メスヴァン卿ヘンリーと再々婚→1541年にメスヴァン城【Map】で死去 |
1517年 | 摂政アルバニ公、一時フランスに帰国しフランソワ一世との間のルアン条約で「古来の同盟」再確認。 |
1520年 | ダグラス一族(親英派)とハミルトン一族(親仏派)のエジンバラ市街戦→ダグラス一族の勝利(コウズウエイの一掃) |
1521年 | アルバニ公、スコットランドへ戻る。 |
1522・23年 | アルバニ公、フランス軍の支援でイングランド領に侵攻→失敗 |
1524年 | 親仏派のアルバニ公、フランスへ去る。 →アラン伯ハミルトン、ジェームス5世をスターリング城からエジンバラ城に移す。 |
1525年 | 後見人のアンガス伯ダグラス、ジェイムズ5世をフォークランド宮殿に軟禁 【Map】 |
1528年 | ジェイムズ5世、フォークランド宮殿から脱出し、スターリング城で全権を握り親政を開始→アンガス伯はイングランドへ逃亡 |
宗教改革者パトリック・ハミルトン、(Patrick Hamilton) 火刑に処せられる。 | |
1530年 | ジェイムズ5世、イングランドとの国境近くでジョニー・アームストロング(Johnnie Armstrong・ギルノッキー城主)と家臣たちを殺害。 【Map】 |
1532年 | ジェームス5世、「College of Justice」(民事の中央裁判所)創設 |
1537年 | ジェームズ5世、フランスとの古い同盟を更新し、フランス国王フランソワ1世の王女マデリンとノートルダム寺院で結婚→マデリンは、結婚後数ヶ月後にホリールード宮殿で結核で病没 【Map】 |
1538年 | ジェイムズ5世、フランスの「ギーズのメアリ」(メアリ女王の母)と再婚、セント・アンドルーズ大聖堂で挙式。 |
1541年 | ヘンリー8世、ジェームス5世にヨークでの会談を強要→ジェームス5世拒否→イングランド軍、国境沿いのロクスバラ、ケルソーを焼き払う。 |
ジェームス5世の長男と次男死去 | |
1542年 | ジェイムズ5世、イングランドとの「ソルウエイ・モスの戦」【Map】で敗北→フォークランド宮殿へ帰って熱病で死亡(12/14日) |
王女メアリがリンリスゴー宮殿で誕生(12/8日)【Map】、生後6日で王位を継承、スターリング城で戴冠式→スコットランド女王メアリ1世、摂政は2代アラン伯ジェイムズ・ハミルトン(新英派) | |
1544年 | ヘンリ8世、メアリとイングランド皇太子エドワード(エドワード6世)との婚姻を画策して失敗し、スコットランドに侵攻してメアリーを連れ去ろうとした。「粗野な求愛」(Raugh・Wooing)・「ハーファドの侵入」 |
1546年 | 宗教改革者、ジョージ・ウィシャート処刑、(the martyrdom of Wishart) 報復としてセント・アンドルーズ城で枢機卿デイヴィット・ビートン殺害される。【Map】 |
1547年 | ヘンリー8世が死去し、エドワード6世の摂政となってイングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け、迎撃に出たアラン伯が敗れる。(ピンキーの戦)【Map】 →王大后メアリ、フランスに支援を求める。 |
1548年 | メアリ女王、「ハディントン条約」でフランス王太子フランソワと婚約し渡仏。4人の「The Queen’s Maries」も同行→以後フランス宮廷で育てられる。 |
1553年 | イングランド・エドワード6世死去し、メアリ1世(ブラッド・メアリ)即位 |
1554年 | フランスの後押しで、「ギーズのメアリ」(メアリ女王の母)摂政となる。 |
メアリ1世の弾圧を逃れて宗教改革の指導者ジョン・ノックス、イングランドから大陸へ亡命 | |
1557年 | 4代アーガイル公アーチボルト・キャンベルらがプロテスタント信仰を誓う「第一次信仰盟約」にサイン |
1558年 | メアリ女王、フランス王太子フランソワと結婚、ノートルダム寺院で挙式 |
イングランド、メアリ1世の死去でエリザベス1世即位→フランスのアンリ2世、メアリー女王がイングランド王位継承権者であると抗議→イングランド議会、エリザベスの嫡出を議決 | |
1559年 | メアリ女王、「イングランド王位継承権の正当性」を主張する紋章を刻んだ食器で、駐仏イングランド大使を招いた晩餐会を開く。 |
アンリ2世死去で、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはスコットランド女王とともにフランス王妃となる。 | |
ジョン・ノックス帰国、パース・スターリング・セント・アンドルーズなどで「教会・偶像破壊運動」 | |
1560年 | 「ギーズのメアリ」(メアリ女王の母)死去 |
スコットランドでのプロテスタント反乱事件に、エリザベス1世のイングランド軍が反乱側を応援し介入→鎮圧に向かったフランス海軍が大敗→エジンバラ条約(フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止・メアリ女王は未批准) | |
イングランド・フランス両国はスコットランドから撤退→スコットランドとフランスとの「古い同盟」(1295年~)の終わり | |
「会衆指導層」(プロテスタント貴族、宗教改革支持の地主・領主・都市住民)が宗教改革議会を開催、ジョン・ノックスらの作成した「第一規律書」・「スコットランド信条」成立・長老教会の発足 | |
メアリ女王の夫、フランソワ2世が16歳で病死 | |
1561年 | メアリ、フランスから帰国、(「フランスを去るメアリー」)・ カレー港【Map】→(5日間)→リース港【Map】→ホリールード宮殿 ジョン・ノックスと会見・「神学論争」 |
1562年 | カトリックの有力貴族・ゴードン家(Clan Gordon)がメアリー女王に反乱を起こす。「コリッチーの戦」(Battle of Corrichie )→マリ伯ジェイムズ・スチュアート(メアリ女王の異母兄)が鎮圧 |
メアリ女王とイングランドのエリザベス女王とのヨークでの会見計画→フランスでのユグノー戦争(宗教戦争)の影響で実現せず。 | |
1565年 | メアリ女王、ダーンリ卿と再婚 |
マリ伯ジェームス・スチュアートがエリザベス1世からの援助を取り付け、1200人の兵力を集めてメアリーに反乱を起こす→イングランドからの援軍は現われず、マリ伯はスコットランド南部でボスウェル伯率いるスコットランド軍に敗北し、イングランドに亡命 | |
メアリ女王、秘書のリッチョを寵愛し重用する。 | |
1566年 | ダーンリ、 ホリールード宮殿で、リッチョ殺害(「The Murder of Rizzio」 |
メアリ女王、エジンバラ城でジェイムス6世を出産 | |
マリ伯らがクレイグミラー城で、ダーンリ排除の協議・密約 【Map】 | |
1567年 | ダーンリ、エジンバラのカーク・オ・フィールド教会(現在のエディンバラ大学構内)で暗殺さる。 メアリ女王、ダーンリ殺害の首謀者ボスウエル伯と再婚。これに反対する4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスら反ボスウェル派の貴族たちの反乱軍に、エジンバラ東の「カーベリー・ヒルの戦」【Map】で敗れ、メアリ女王はロッホリーヴン城に幽閉され廃位される。【Map】→ボスウエルはノルウエイへ逃れ、1578年にデンマークで獄死 |
ジェイムズ6世即位、ホリールード教会【Map】で戴冠式(摂政マリ伯ジェイムス・スチュアート →4代レノックス伯マシュー・スチュアート(1571年にスターリング城で射殺される)→マー伯ジョン・アースキン→4代モートン伯ジェームス・ダグラス) | |
教会総会で教会の自立重視のカルヴィン主義的傾向強まる。 | |
1568年 | メアリ、ロッホリーヴン城を脱出し再起を図る。「脱出するメアリ」 →「ラングサイドの戦」【Map】でマリ伯の軍に敗れ、イングランドへ亡命 |
メアリ、エリザベス1世によりロンドンに幽閉される(~1587年)) | |
1569年 | メアリとノーフォーク公トマス・ハワードとの結婚、王位簒奪計画 |
1570年 | 摂政マリ伯ジェームス・スチュアート、メアリーを支持するジェイムス・ハミルトン(assassin)に暗殺される。 |
リドルフィ事件(エリザベス1世廃位、メアリ即位の陰謀事件) | |
1572年 | 第4代ノーフォーク公トマス・ハワード、メアリとの結婚を企み王位を狙ったとして反逆罪で処刑 |
「リース条約」成立 | |
1573年 | 4代モートン伯ジェイムズ・ダグラス、メアリ派が籠城するエジンバラ城を陥落→スコットランドの内戦終結 |
1574年 | 宗教改革者、アンドルー・メルヴィル帰国、長老主義教会の確立に努める。 |
1578年 | 「第二規律の書」作成 |
1579年 | ジェイムス6世、のスターリング城からエジンバラ城に移る |
1581年 | 4代モートン伯、レノックス伯エズメ・ステュアートからダーンリ卿暗殺の罪を着せられ処刑される。 |
1582年 | ガウリ伯らの「リヴァン襲撃」で、ジェイムス6世誘拐、リヴァン城 【Map】に軟禁、エズメ・スチュアートは国外追放 |
1583年 | ジェイムズ6世、リヴァン城からの脱出 |
エジンバラ大学創立 | |
1584年 | ジェイムズ6世、ガウリ伯を処刑し、直接統治を行う。 国王の教会支配権を認める、「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、国王や議会に反対する説教を禁止 |
1586年 | メアリ、エリザベス1世の暗殺を狙ったバビントン事件に関与した証拠が提示され、有罪・死刑を宣告される。 |
1587年 | メアリ、ロンドンのフォザリンゲイ城で処刑される。【Map】 (メアリ処刑の場面) |
1589年 | ジェイムス6世、オスロでデンマーク・ノルウエイ王フレデリック2世の娘、アンと結婚 |
1592年 | 2代マリ伯ジェームス・スチュワートが、ドニブリスル城でハントリー侯ジョージ・ゴードンに殺害される。 【Map】 |
「暗黒法」に対する信徒の反発が強く、「黄金法」(ゴールデン・アクト)で「集会」を認めることとした。さらに1598年には「司教議員」を認め、教会の推す3人の司教にスコットランド議会議員同様の立法活動を許すこととした。 | |
1598年 | ジェイムス、『自由なる君主国の真の法』(論文)で王権神授説を唱える。「魔女狩り」導入の「悪魔学(デモノロジー)」執筆 「魔女狩りされた女たち」 |
1600年 | ガウリ伯一族の陰謀事件 (Gowrie Conspiracy) ジェイムズ6世は謀反の疑いをかけて、ガウリ伯とその弟をガウリ館で殺害した。「The mayhem at Gowrie House 」 |
1603年 | エリザベス1世の死去で、ジェイムス6世がイングランド王(ジェイムス1世)となり、ロンドンに移住→(「同君連合」成立) |
レノックスの襲撃事件・・・キャンベル一族に追い立てられたマクレガー氏族(Clan Gregor) の、近隣氏族への襲撃・略奪事件→7代アーガイル伯アーチボルト・キャンベル("Gillesbuig Grumach" ("Archibald the Grim"・しかめっ面のアーチボルト),)らが鎮圧・裁判→「マクレガー氏族名抹消令」 ロブ・ロイ(Rob Roy MacGregor ) もマグレガー姓ではなく、母方の姓キャンベルを名乗る。(ロバート・マクレガー・キャンベル) | |
1605年 | ガイ・フォークスらカトリック教徒による、国王・重臣らをねらった爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こる。 |
1606年 | ジェイムス、ユニオン・フラッグを制定(初代ユニオンフラッグ) |
主教制を否定するアンドルー・メルヴィルをスコットランドから追放 | |
1610年 | ジェイムス、主教を任命し、主教制の成立(スコットランド教会のイングランド国教会化) |
1611年 | ジェームズの命により、欽定訳聖書を作成、刊行 |
1613年 | ジェームスとアン王妃の長女のエリザベスが、ファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚 |
1617年 | ジェイムズ、一時スコットランドへ戻る。(最後の帰国) |
1618年 | ジェイムス、パースで聖職者会議を開き、「パースの五か条」(イングランド国教会的な儀式をスコットランド教会に導入)を押し付ける。 |
「三十年戦争」始まる。(~1648) | |
1625年 | ジェイムス、シーアボールズ宮殿【Map】で死去→チャールズ1世即位。 「廃棄法」制定 |
チャールズ1世、仏王アンリ4世の娘のアンリエッタ・マリアと結婚 | |
1633年 | チャールズ1世、スコットランドを訪問し、スコットランド王戴冠式を行う→儀式がカトリック的だとスコットランド国民から反感を買う。 |
1637年 | チャールズ1世のイングランド国教会「一般祈祷書」押しつけ、導入に対してスコットランドで暴動 |
清教徒革命(年表) | |
1638年 | 「国民契約」(National Covenan)成立、長老主義会議が再確立 |
1639年 | スコットランド契約派と国王軍の間で、「第一次主教戦争」開始→ベリック条約で休戦 |
1640年 | 「第二次主教戦争」で契約派勝利し、議会改革が進む。(リポン条約)、 |
1641年 | チャールズ1世、交渉のためエジンバラ訪問し、長老派教会を認めるなど譲歩→アーガイル侯らは敵対姿勢を継続 |
1642年 | 第一次イングランド内戦開始 |
1643年 | 王党派、アドウォルトン・ムーアの戦で勝利し、優位に立つ。(戦碑) 【Map】 |
国民契約派とイングランド議会派間に「厳粛なる同盟と契約」成立 | |
1644年 | 国民契約派軍、アレグサンダー・レズリを指揮官にイングランドに進軍→クロムウエル軍に合流→ |
「マーストン・ムアの戦」で、オリバー・クロムウェル率いる議会派軍に王党派軍が敗れる。(記念碑) 【Map】 | |
モントローズ伯ジェームス・グラハムが契約派より離脱、国王軍副司令官に任命され契約派と対峙 | |
1645年 | モントローズ伯、「フィリップホッフの戦」で敗北 (記念碑) 【Map】→大陸へ亡命→1650年にオークニー諸島で再起・挙兵→カービスデイルの戦【Map】でレズリー率いる国民契約軍の奇襲を受けて捕縛・処刑される。 |
「ネーズビイの戦」(Battle of Naseby)で議会派軍勝利 【Map】 | |
1646年 | チャールズ1世、スコットランド軍に投降、身柄はイングランド軍に引き渡されハンプトン・コート宮殿に軟禁 【Map】 |
1647年 | チャールズ1世、ワイト島へ脱出したがカリスブルック城に監禁される。【Map】 →スコットランド王党派と和解契約を締結 |
1648年 | 第二次イングランド内戦開始 プライドのパージにより長老派が議会から追放され、独立派が権力を掌握→共和政のイングランド共和国(1649-60年)の樹立を宣言 |
1649年 | 「ランプ会議」の裁判でチャールズ1世に死刑判決→ホワイトホール宮殿で処刑 【Map】 →スコットランド、息子をスコットランド国王チャールズ2世即位と宣言 |
1650年 | チャールズ2世、スコットランドに入る。 |
クロムウエル、スコットランドに侵攻。(第三次イングランド内戦)、 | |
クロムウエル率いるイングランド共和国陸軍にスコットランド軍が大敗。(ダンバーの戦)【Map】 | |
1651年 | チャールズ2世、スクーンで戴冠式→「ウスターの戦」【Map】でクロムウエル軍に敗北し、スコットランドはイングランドの支配下 |
チャールズ2世、フランスに亡命 | |
クロムウエル、「航海法」制定 | |
1657年 | 「合同法」制定で、イングランド、スコットランド、アイルランド間のコモンウェルス成立。 |
1658年 | クロムウエル死亡 |
1660年 | チャールズ2世、ブリテンに上陸、ロンドンに入城し、イングランド王チャールズ2世となる。(王政復古) 主教制、枢密院が復活。王政復古を実現させた功によりモンク将軍がアルベマール公爵に叙された。 |
「航海法」改正、スコットランドへの差別強化 | |
1661年 | チャールズ2世からスコットランド大臣に任命されたジョン・メイトランドは、スコットランド大法官のロシズ伯ジョン・レズリー(John Leslie, 1st Duke of Rothes)やセント・アンドルーズ主教ジェームス・シャープと共にスコットランド議会で、チャールズ2世を教会の首長と宣言、スコットランドの宗教制度を長老制から監督制に切り替えさせた。「廃棄法」→ 反対派には拷問・罰金・監督制教会への強制入会で弾圧(殺戮時代) |
王政復古に対する反乱が起こる。 | |
チャールズ2世、アーガイル侯を反逆罪で処刑 | |
1672年 | 「第一次信仰自由令」制定(1687年二次制定) |
1678年 | 「審査法」制定( ローマ・カトリック信徒や非国教徒に対する差別・排除) |
カトリック陰謀事件 (5人のイエズス会士の処刑) | |
1679年 | 国民契約派がスコットランドで主教制の復活など弾圧政策を推し進めていた大主教ジェイムス・シャープをストラスキネスのMagus Muirで殺害【Map】、反乱勃発→「ボスウエル・ブリッジの戦」(Battle of Bothwell Bridge)でジョン・グラハム (初代ダンディー子爵)らが鎮圧・終結 |
1680年 | 殺戮時代(長老派教会のカヴェナンターを迫害し、殺戮 ~1688年)、過激長老派の指導者のリチャード・カメロン殺害される。 |
シンクレア氏族とキャンベル氏族の「アルティマルラッハの戦」(ケイネス伯爵の称号と土地の権利争い) | |
1683年 | ライハウス陰謀事件(Rye Houseでのチャールズ2世暗殺陰謀事件)「Rye House」 【Map】 |
1685年 | チャールズ2世、、ホワイトホール宮殿で死去、ジェイムズ7世(2世)即位、カトリックの復活、「宣誓法」の発布、イングランドでもカトリックの強制 |
モンマスの反乱(オランダに亡命していたモンマスがイングランドへ戻りジェームズ2世に対して起こした反乱)→失敗し、モンマスはロンドン塔の断頭台で処刑 | |
1687年 | シッスル勲章(あざみ勲章・アザミ騎士団)制定。騎士団の礼拝堂はセント・ジャイルズ大聖堂の「シッスル・チャペル」【Map】 |
1688年 | カメロン派の Covenanterのリーダーのジェイムス・レンウイック処刑される。 |
オレンジ゙公ウィリアム、イングランドのトーベイに上陸 【Map】 ジェイムズ2世(7世)、フランスに亡命。(名誉革命) | |
1689年 | スコットランド議会、ジェイムズ7世の王位没収、主教制の否定、ウィリアムに対する、「権利要求」制定 |
ウィリアム3世(スコットランド王ウィリアム2世)、メアリ2世即位(共同統治者) | |
ジェイムズ7世支持(ジャコバイト)のダンディ卿ジョン・グラハムの反乱起こる。→「キリークランキーの戦」【Map】で、ジョン・グラハム戦死、反乱収束 | |
1690年 | ジェイムズ、アイルランドでの「ボイン川の戦」【Map】で、ウィリアム3世に敗れる。→ジェイムズ、フランスへ逃亡 |
ウイリアム、司教制を廃止し長老会制を公認(スコットランド教会の牧師は長老や会衆から推挙) | |
1692年 | 「グレンコーの虐殺」 【Map】 |
1695年 | スコットランド銀行法制定、翌年から営業を開始 |
「アフリカ・南インド貿易のためのスコットランド会社」設立→「ダリエン計画」(スコットランドによる植民地経営計画) アンドリュー・フレッチャーらが計画を支持し、推進した。 | |
1700年 | 「ダリエン計画」失敗 |
1701年 | 「王位継承法」制定 |
ウィリアム3世、オランダへ渡り、ハーグでオーストリア・ドイツ諸侯と対フランス同盟結成 | |
ジェイムズ7世の死亡で、息子がジェイムズ8世(3世)を名乗る→「老王位僭称者」 | |
1702年 | ウィリアム3世死去、「王位継承法」により、ジェイムス2世(7世)の娘(メアリ2世の妹)のアン女王即位 |
「スペイン継承戦争」に参戦 | |
1703年 | ダニエル・デフォー、パンフレット『非国教徒撲滅策』などの政治的活動で逮捕 「晒し台のデフォー」(エア・クロウ作) |
1704年 | スコットランド議会が「安全保障法」(スコットランドは独自に王を立てる権利を有するという宣言)・「戦争と平和に関する法」制定 |
1705年 | イングランド議会は「外国人法」制定(イングランドとの合同に同意しなければ航海法体制にくわえて、スコットランドとヨーロッパとの交易も制限する) |
1707年 | スコットランド議会で「合同法」可決で、スコットランドとイングランドは「グレート・ブリテン連合国」となる。スコットランド教会の独自性保証 |
1708年 | フランスのジャコバイトへの支援・蜂起、上陸未遂・不発・失敗 |
1712年 | 教会聖職禄授与権法(パトロン権法制定)→地主の牧師候補者に対する人事権の行使復活→20世紀初頭まで |
1714年 | アン女王死去(ステュアート朝断絶)、ジョージ1世即位(ハノーヴァー朝の開祖) |
1715年 | ジェイムズ8世を支持する「ジャコバイトの反乱」→シェリフミューアの戦 【Map】→プレストンの戦 【Map】でジャコバイトの敗北で終結。老王位僭称者ジェイムズは12月22日にピーターヘッド【Map】に上陸するも、翌年2月4日にモントローズ【Map】から大陸へ去った。 ウォルター・スコットの小説「ロブ・ロイ」に描かれた、「ロブ・ロイ・マクレガー」(Robert Roy MacGregor )の活躍。 映画「ロブ・ロイ/ロマンに生きた男」(原題: Rob Roy) |
1719年 | スペインがジャコバイトによるスコットランド侵攻を支援→グレン・シールの戦 【Map】でイギリス政府軍が勝利 |
1720年 | グラスゴーのタバコ交易成功→船舶銀行(1749年)・グラスゴー・アームズ銀行(1750年)・スィスル銀行(1761年)の設立 |
1725~36年 | ウェード将軍(ジョージ・ウェイド)がハイランド地方に約240kmの道路、30~40本の橋を建設 |
1727年 | ジョージ1世死去、ジョージ2世即位 |
ロイヤルバンク・オブ・スコットランド(スコットランド王立銀行)設立 | |
1733年 | 長老主義教会の第一次分離 (1761年第二次分離) |
1736年 | ポーティアスの暴動(エジンバラ) W.スコットの小説『ミドロージアンの心臓』に取上げられている。 |
1745年 | 老王位僭称者ジェイムズの長男、ボニ・プリンス・チャーリ(いとしのチャールズ王子・若王僭称者)、フランスからアウター・ヘブリーズ諸島のエリスケイ島に上陸して進軍 【Map】 「ジャコバイトの乱」 |
ジャコバイト軍、エジンバラ占拠、プレストンパンズの戦でイギリス軍を破る。【Map】 | |
ジャコバイト軍、ダービーまで進軍するが、武器弾薬、食料の補給も乏しく退却 【Map】 | |
1746年 | 「カロデン・ムアの戦」【Map】でジャコバイト軍敗北、カンバーランド公(屠殺者カンバーランド)の虐殺 若王僭称者チャーリ、フローラ・マクドナルドらの手助けで大陸へ逃亡。 「フローラと若僭王チャーリが別れたポートリー(Portree Harbour)」(スカイ島)【Map】 |
1747年 | クラン族長の権限剥奪、クランの武装蜂起、ハイランド的文化(キルトの着用、バグパイプの演奏など)の禁止の「世襲司法権法」制定(スコットランドのみ適用)→1782年に撤廃 |
若王僭称者チャーリの弟ヘンリー、枢機卿となる。 | |
1754年 | ハードウイック婚姻法施行(イングランドでは両親の承諾を得た21歳以上の男女のみに結婚が制限)→グレトナ・グリーン(スコットランド)での駆け落ちカップルが増加、流行。【Map】 「グレトナ・グリーンへの道」(ヘイウッド・ハーディー作) |
セント・アンドルーズゴルフクラブ設立 【Map】 | |
1759年 | 「キプロン湾の海戦」で、仏艦隊が英艦隊に敗北→ジャコバイト軍のブリテンへの再侵入ならず。 【Map】 |
1760年 | ジョージ2世死去、ジョージ3世即位 |
「スコットランド啓蒙の開花」 | |
ジェイムス・ワット ニューコメン蒸気機関の改良、普及、商品化 | |
デイヴィット・ヒューム エジンバラ出身のイギリス経験論哲学の完成者 | |
ロバート・アダム アダム様式(Adam style) の新古典主義建築家 | |
トマス・テルフォード 「道路の巨人」と呼ばれた、土木技師、建築家。 エジンバラの「ディーン橋」【Map】 | |
ジェイムス・ボズウエル 法律家、伝記文学の傑作と評される『サミュエル・ジョンソン伝』の著者 | |
ロバート・バーンズ スコットランドの国民的詩人、スコットランド民謡の収集、普及にもつとめた。 | |
アダム・スミス 経済学者・哲学者・倫理学者、『国富論』・『道徳感情論』の著者 | |
ウオルター・スコット 詩人・小説家、存命中に国外でも成功を収めた、イギリスで初めての人気作家 | |
フランシス・ジェフリー 裁判官、文芸批評家、『エディンバラ・レビュー』(Edinburgh Review)の創刊に携わる。 | |
アラン・ラムゼイ 肖像画家、ジョージ3世の宮廷画家を務めた。 | |
アダム・ファーガソン 古典的自由主義の歴史家、道徳哲学者 | |
ジェイムス・マクファーソン 詩人、文芸収集家、叙事詩「オシアン」の発見者、捏造者? | |
ジェイムス・クレイグ エディンバラ新市街(ニュータウン)を設計した建築家 | |
ジェイムス・ホッグ 小説家、エッセイスト、スコットランド語(Scots)と英語の両方で書いた。 | |
1762年 | 「オシアン事件」(贋作・偽書論争)始まる。(「フィンガル刊行」) 「フィンガルの洞窟」【Map】 |
序曲「フィンガルの洞窟」(メンデルスゾーン作曲:初演1832年) 【YouTube】 | |
1767年 | エジンバラの「ニュー・タウン」建設開始 【Map】 「アレグサンダー・ネイスミスの絵」 |
1768年 | エジンバラで「ブリタニカ百科事典」発行 |
1775年 | アメリカ独立戦争(~1783年) |
1778年 | ロンドンで「ハイランド協会」設立 |
1780年代~ | スコットランドの産業革命 (~1850年代)→グラスゴーなどの都市に人口流入・過剰、スラム街の発生 |
1783年 | エジンバラ王立協会設立 【Map】 |
1784年 | エジンバラに「ハイランド協会」設立 |
1785年 | 「ニュー・ラナーク」操業開始→2001年世界遺産登録 【Map】 |
1789年 | フランス革命 |
1790年 | フォース・クライド運河開通 【Map】 |
1801年 | アイルランド、連合王国に加わる。(実質的にはイギリスによるアイルランド併合) |
1802年 | 「エジンバラ評論」創刊 |
1807年 | 若王僭称者チャーリの弟ヘンリー・ベネディクト・スチュアート死去→スチュアート王家の直系断絶 |
1811年 | アボッツフォード・ハウス(ウオルター・スコット邸宅)建設開始(1824年頃完成) 【Map】 |
1812年 | グラスゴーでイギリス最初の蒸気客船「コメット号」が進水 |
1815年~ | ハイランド地方の「土地清掃」(ハイランド・クリアランス・強制立ち退き)本格化 |
1817年 | 「スコッツマン」(The Scotsman )創刊 |
1818年 | ウオルター・スコット、エジンバラ城で「三種の宝器」を発見 |
1820年 | ジョージ3世死去、ジョージ4世即位 |
「ボニミュアの戦」・・・工員が劣悪な労働条件に抗議して軍と衝突、「ストライキ」の先駆け→3人殺され、3人が死刑 | |
1822年 | カレドニア運河開通 【Map】 |
ジョージ4世、エジンバラ行幸(ウォルター・スコットにより計画された、17世紀中期以来初の行幸) | |
1826年 | エジンバラ→ダルキース間、鉄道開通(1831年?) 【Map】 |
1827~28年 | 「バークとヘア連続殺人事件」(17人を殺害し、死体を解剖用にエジンバラ医学校に売った) イアン・ランキンはジョン・リーバス警部シリーズの「滝」(The Falls) で、この事件について記述している。 |
1829年 | カトリック解放法制定(1678年の「審査法」による差別・排除からの解放) |
メンデルスゾーン、スコットランドへ旅行。翌年、序曲「フィンガルの洞窟」作曲 | |
1830年 | ジョージ4世、ウィンザー城 【Map】で死去、ウィリアム4世即位 |
1831年 | 「狩猟法」改正・・・農民の畑を荒らす狩猟動物の保護の規制緩和 |
1832年 | 第一回選挙法改正 |
1835年 | オペラ「ランメルモールのルチア」(ドニゼッティ作曲・原作はウォルター・スコットの小説『ラマムアの花嫁』)初演 【YouTube】(全幕)・【YouTube】(狂乱の場) |
1836年 | インヴァネス城再建設 【Map】 |
1837年 | ウィリアム4世死去、姪のヴィクトリア女王即位 |
1842年 | 「交響曲第3番(スコットランド)」(メンデルスゾーン作曲)初演 |
1843年 | トーマス・チャーマーズを指導者としてスコットランド国教会から分離してスコットランド自由教会が設立、「教会分裂」 |
1845年 | 「救貧法」(Poor Law (Scotland) Act 1845 )制定 |
1845~49年 | アイルランドの「ジャガイモ飢饉」で、スコットランド西部へ移民・難民が流入→スコットランド人との反目・抗争・暴動 |
1846年 | エジンバラ・グラスゴー鉄道、 ノース・ブリティッシュ鉄道開通 |
1847年 | スコットランド一致長老教会が成立 |
カレドニアン鉄道開通 「812形蒸気機関車」(1899年導入) | |
1856年 | ヴィクトリア女王、バルモラルに離宮建設 【Map】 |
1859年 | グラバー来日→2年後、長崎に「グラバー商会」設立 |
コナン・ドイル生まれる | |
1860年 | ブレンデッド・ウイスキー(モルト・ウイスキーとグレーン・ウイスキーをブレンド)発売 「スコッチ・ウイスキー」 |
1868年 | 第2回選挙法改正 |
「日本の灯台の父」、リチャード・ブライトン来日 | |
1869年 | 聖アンドルー大聖堂(インヴァネス)建築 【Map】 |
1872年 | スコットランド教育法公布、初等義務教育の開始(5歳から13歳までのすべての子供に初等教育が義務付け) |
1873年 | 動物画家エドウイン・ランドシーア死去 「コミカル・ドッグ」 |
1874年 | グラスゴーのネピア造船所で「明治丸」竣工 |
1883年 | グラスゴー市庁舎(イタリアン・ルネサンス宮殿様式)竣工 【Map】 |
「ロイヤル・ライシーアム・シアター」建設(エジンバラ) 【Map】 | |
1884年 | 第3回選挙法改正・・・農村労働者に選挙権を拡大 |
1885年 | スコットランド省設置(~1999年) |
1886年 | スコットランド自治協会設立(自治運動)・小作農法成立(小作契約の保証・地代の適正化(「土地法廷」と呼ばれた委員会設置)など) |
1887年 | スコットランド庁設立 |
「日本近代水道の父」、ウイリアム・k・バートン来日 | |
1888年 | ジェイムス・ケア・ハーディ、スコットランド労働党結成 |
1889年 | 地方自治法制定・スコットランド大学法制定(スコットランド法) |
1890年 | フォース湾に鉄橋完成(フォース鉄道橋・世界遺産) 【Map】 |
1892年 | スコットランド自由教会から自由長老教会が設立(スコットランドの宗教) |
1893年 | ジェイムス・ケア・ハーディを指導者に独立労働党結成 |
1894年 | ウエスト・ハイランド鉄道(West Highland Line)開通 「ジャコバイト号」(The Jacobite ) |
1897年 | スコットランド労働組合会議結成(労働党の前身) |
19世紀末 | 4大都市への人口集中・・・グラスゴー、エジンバラ、アバディーン、ダンディーにスコットランドの人口の1/3が集中。 |
菜園文学の流行(~20世紀初頭) | |
1900年 | 自由教会と一致長老教会が統合→一致自由協会(United Free Church of Scotland ) |
1901年 | ヴィクトリア女王死去、エドワード7世即位 |
1904年 | 「キングズ・シアター」(グラスゴー)開設 【Map】 |
1906年 | 「キングズ・シアター」(エジンバラ)開設 【Map】 |
ジェイムス・ケア・ハーディ、労働党結成 | |
1910年 | エドワード7世死去で、ジョージ5世即位 |
1914年 | 第一次世界大戦(~1918) |
「アッシャー・ホール」建設 【Map】 | |
1918年 | 女性参政権(30歳以上) |
竹鶴政孝(ニッカウヰスキーの創業者)、グラスゴー大学へ留学 | |
1915年 | 「赤いクライサイド」(イギリスの左翼)、活動(~1922) |
1919年 | グラスゴーを中心にゼネスト(血の金曜日暴動・市庁舎前に10万のデモ隊が集結) |
1922年 | アイルランド自由国成立 |
1924年 | ジェイムス・ラムゼイ・マクドナルド、スコットランド人として初の労働党内閣首相となる。 |
1926年 | スコットランド担当官、閣僚となる。 |
1928年 | スコットランド国家党(NPS)創設 |
1929年 | スコットランド長老主義教会、再合同 |
「プレイハウス・シアター」(エジンバラ)建設 【Map】 | |
1934年 | スコットランド国民党(SNP)創設(スコットランド国家党 (National Party of Scotland) とスコットランド党 (Scottish Party) の合流) |
1936年 | ジョージ5世死去でエドワード8世即位→アメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するために在任期間325日退位。 映画「英国王冠を賭けた恋」 |
1939年 | 第二次世界大戦(~45年) |
1942年 | スコットランド産業協議会設立 |
1946年 | スコットランド産業・開発協議会設立 |
1947年 | 第一回エジンバラ・フェスティバル |
1950年 | グラスゴー大学の4人の学生が、スクーンの石をウエストミンスター寺院からスコットランドへ持ち去る。→1952年に回収されてウエストミンスター寺院に戻される。 |
1952年 | ジョージ6世死去で、エリザベス2世即位 |
1970年 | 北海油田発見 |
1972年 | スコットランド経済計画局設立 |
1973年 | スコットランド地方行政法制定 |
EC加盟 | |
1975年 | スコットランド開発庁設置 |
1979年 | サッチャーの保守党勝利 |
「スコットランドの権限移譲を問う住民投票」、否決 | |
1985年 | 「エジンバラ国際フェスティバル」で蜷川幸雄演出「マクベス」上演 |
1989年 | 「スコットランド国政会議」結成 |
1990年 | グラスゴーがEUの「欧州文化都市」に選定 |
1994年 | 「エジンバラ・フェスティバル・シアター」改修オープン 【Map】 |
1995年 | エジンバラのオールドタウンとニュータウンが世界遺産に登録 |
1996年 | 「運命の石」(スクーンの石)がロンドンのウエストミンスター寺院から、エジンバラ城へ返還 |
1997年 | ブレアの労働党勝利 |
「スコットランドの権限移譲を問う住民投票」、可決→スコットランド議会設置と自治が決定 | |
「黒と青」(リーバス警部シリーズ・イアン・ランキン作の 「タータン・ノワール」(スコットランドを舞台としたハードボイルド的、ゴシック的な犯罪小説) | |
1999年 | 5月、スコットランド議会選挙 「スコットランド議会議事堂」 |
ウェストミンスターのイギリス議会から新しいスコットランド議会へ権限が委譲 | |
7月、スコットランド議会開会 ドナルド・デュワー、初代スコットランド首相に就任 | |
2000年 | 第2代首相にヘンリ・マクリーシュ就任 |
2001年 | 第3代首相にジャック・マコーネル就任 |
2014年 | 「スコットランドの独立を問う住民投票」→反対票が55%を占め、独立は否決 |
2015年 | イギリス議会の総選挙:スコットランドに割り当てられているイギリス議会下院の議員数は59議席 |
スコットランド国民党-56議席、保守党-2議席、労働党-1議席、獲得 | |
ボーダーズ鉄道開通・・・ウェイヴァリー(エジンバラ)駅←→ツイードバンク駅【Map】 | |
2016年 | スコットランド議会の総選挙 |
スコットランド民族党 (SNP) - 63議席 女性党首ニコラ・スタージョン(主張)が2014年11月から首相 | |
スコットランド保守党-31議席 | |
スコットランド労働党-24議席 | |
スコットランド緑の党-6議席 | |
スコットランド自由民主党-6議席 | |
2021年 | 5月6日にスコットランド議会総選挙実施予定 |
世論調査(Opinium社・4月1~6日実施)・・・スコットランド独立支持(51%)・不支持(49%) | |
5/6日の選挙結果 | 独立派(スコットランド民族党と緑の党)が過半数を獲得して勝利 (The Scotsman ) |
スコットランドの城 |
姉妹都市 |
イースト・ダンバートンシャー州(ストラスクライド地方)と余市町(北海道)
グラスゴーと新潟県
エジンバラと京都府
アバディーン(ハイランド地方)と長崎市
「日本スコットランド交流協会」