「道灌」   立川談志

 
あらすじ 八五郎が隠居の家にある太田道灌の掛け軸の絵の説明を聞く。
道灌が狩に出かけにわか雨に遭い、雨具を借りにあばらやに入ると娘が山吹の枝を捧げる。
七重八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞ悲しき」という古歌のように、実と蓑をかけて雨具のないことを断ったのだが、道灌は分からず家来から説明される。道灌は歌道に暗いことを嘆き、のちに大歌人になったとの故事だ。

 八五郎は歌を書いてもらい、雨具を借りに来たらこの歌で断ろうと家に帰る。都合よく雨が降ってきたが、友達が雨具ではなく提灯を借りに来る。無理やり友達に「雨具を借りに来た」と言わせ、「七重八重・・・」の歌を見せる。

友達 「なんだ、これは都々逸か?」

八五郎 「お前もやっぱり歌道に暗えなあ」

友達 「かどが暗いから提灯借りに来た。」

     
山吹       「民芸 蓑笠

 
★見聞録
 昭和60年の「ビヤホール名人会」から録音したものを聞きました。
この噺は、談志と桂文治の二つだけしか収録していませんでした。なぜ少ないのかと思っていましたが、やり手の少ない理由を談志が落語の中で語っていました。
ひとつは前座噺であること。もうひとつは「賤の女(しずのめ)」というタブー語が出てくるからだそうです。

 談志は枕の部分で、前座の話しや自分の修行時代のことも話しました。何人もの師匠の所へ教わりに行ったそうです。落語の本筋に入ってからも、談誌独特の毒舌と軽口が飛び出します。それも面白いのですが、少し多過ぎた気もします。短い噺なのである程度しょうがないと思いますが。

太田道灌に、やまぶきの枝を捧げた娘のその後
新宿区新宿6丁目の西向天神社の中の大聖院に紅皿(道灌に山吹を捧げた娘の名)の墓と伝えられる「紅皿の碑」があります。碑の前の新宿区教育委員会が設置した説明板には、次のように記されています。
「道灌は紅皿を城に招き歌の友とした。道灌の死後紅皿は尼となって大久保に庵を結び、死後この地に葬られた」

江戸川柳
 「後拾遺の歌を道灌あとで知り」
 「蓑一つあるとやさしい名は立たず」
 「雨宿りから両道の武士となり」


古今亭志ん生の『道灌【YouTube】
 
 大聖院内にある紅皿の碑 《地図
 
 山吹之里碑(面影橋のそば)
地図

埼玉県越生町にも「山吹の里」がある。
太田道灌と山吹伝説

山吹の里」(『江戸名所図会』)

山吹の里姿見橋「絵本江戸土産」広重画) 
   川越城大手門跡(現川越市役所)
の太田道灌像 《地図
   日暮里駅前の太田道灌像



静勝寺の坂 《地図
静勝寺は太田道灌が築いた稲付城跡にあり、
この丘を道灌山@という。『北区の坂道』


道灌堂(静勝寺境内)
太田道灌の木像を安置する。



道灌山坂 《地図》(北区と荒川区の境)

 「道灌山


道灌山A(「絵本江戸土産」広重画)



道灌坂 《地図
太田道灌豊島泰経を討った切通しに因む名。
近くの道灌橋公園道灌橋の碑がある。



道灌坂 《地図
このあたりは、近くに兜塚や夢見ケ崎など
太田道灌にまつわる史跡があり、道灌山と呼んでいる。『鶴見の坂道』



丸山城址公園 「説明板」 《地図
平安時代の終わりから鎌倉時代にかけてこのあたりを支配していた、
糟屋有季の居館跡と伝える。
その後の発掘調査で室町時代後期の資料が多く発見され、
15〜16世紀に城として機能していたことが確認され、
太田道灌が主君の扇谷上杉定正に殺された「上杉館」(糟屋館)
という見方も有力となった。
大山街道(愛甲石田駅→こま参道入口)』



太田道灌の墓(胴塚) 「説明板
前の2本の松の切り株は道灌の四十九日の供養に
詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が植えた松と伝え、
明治半ばまでは立派な松が2本聳えていたという。
万里集九は『梅花無尽蔵』で、「道灌は兵書・史伝・小説・歌集など
数千函の蔵書を持ち、また家集十一を作っていた」と言っている。





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