「船徳」  橘家円蔵


 
★あらすじ★ 道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿の2階に居候の身の徳さんが船頭になりたいと言い出す。
親方は船頭たちを呼び、お披露目をしようとする。船頭たちは、てっきり小言を言われると思い、叱られる前に謝ってしまおうと、それぞれの不始末を白状するが、全部親方の知らないことばかりでやぶ蛇になってしまう。
船頭に「若だんな」の呼び名は似合はないので、「徳」と呼ぶことにする。

今日は、浅草観音の四万六千日。船頭たちは出払ってしまい、船宿には徳さん一人。
そこへなじみの客が、船がきらいな友達を連れてやって来る。大桟橋まで行ってほしいと言う。
船宿のおかみは今日は船頭は出払ってしまっていないと断るが、客は柱に寄りかかって居眠りをしている徳さんを見つける。
おかみさんは断りきれずに、徳さんが船を出すことになる。

客を待たせてひげをあたり、舫(もや)ったままで船を出そうとしたりしたが、なんとか船を出す。土手に知り合いを見つけ、「竹屋のおじさん、大桟橋まで送ってきます」 「徳さん一人かぁ−、大丈夫かぁー」なんてやりとりするもんだから、船の嫌いな客は心配する。徳さんは「この間、赤ん坊連れのおかみさんを川に落としてしまったけど大丈夫だ」なんて言っている。

やっと大川に出たが船は石垣の方に寄って行ってしまう。ぴったり石垣にくっついて身動きがとれない。
徳さんは客のこうもり傘で石垣を突かせ船は離れたが、こうもり傘が石垣の間に挟まってしまう。
もう二度とそこへはつけられないと言われ、客はこうもり傘をあきらめるしかない。

こぎ疲れてきた徳さん、汗が目に入り前が見えない。客に「前から船が来たらよけてください」なんて言い出した。ようやく大桟橋の近くまで来たが、浅瀬に乗り上げてしまった。
徳さんは客にここから土手まで歩いて行ってくれという。仕方なく客が一人を負ぶって川の中を歩き出した。
客が船の方を振ると、徳さんはぐったりしている。

客 「おーい、若い衆、大丈夫か」

徳さん 「上がりましたらね、柳橋まで船頭ひとり雇ってください」



 
★見聞録★ 「船徳」といえば八代目桂文楽ですが、円蔵も文楽の噺を土台にしているようです。
舫(もや)うとは、船を岸の杭などにつないでおくことですが、この言葉が今では通じないので意味を説明したり、「つなぐ」と置き換えて演じていた落語家もいました。円蔵はそのままで使っています。前後の筋とやりとりで分かるので言い換えたり、意味を説明したりしなくともいいと思います。

柳橋は神田川が隅田川に合流する所の橋で、今でも船宿があります。小さな造りなので、二階に居候は無理でしょう。
大桟橋は隅田川の駒形橋の西詰にあり、駒形堂でうがい手水(ちょうず)をして、雷門から浅草観音にお参りに向いました。
竹屋は「竹屋の渡し」(写真)にあった船宿。

四万六千日とは、「寺の縁日に一.。この日に参詣すると四万六千日間参詣したのと同じ功徳があるという。元禄の頃に始まり、観音菩薩の功徳日とされるが、根拠は未詳。7月10日の東京浅草観音の場合、ほうずき市などでにぎわう」 (三省堂の大辞林)


桂文楽(8代目)の『船徳【YouTube】

   柳橋(正面)と神田川
地図
   船宿(柳橋のたもと)
   駒形橋(吾妻橋から) 《地図

橋の西詰(写真右側)に大桟橋(船着場)があった。
   大桟橋があった辺り。正面が駒形堂

駒形堂吾嬬橋
(名所江戸百景)
   駒形堂

船で浅草観音参りの人たちは大桟橋で船を降り、ここでうがい手水(ちょうず)して雷門へ向った。堂のうしろに清水が湧いていた。天慶年間(938〜47)の安房守平公雅が創建したという。馬頭観世音を安置。『落語地名事典』
現在のお堂は新しい。境内に浅草観音戒殺碑(魚介殺生禁断の地)などがある。
   雷門

雨にもかかわらず雷門から仲見世通りは大勢の人が出ている。外国人が多い。

徳さんの船から降ろされた二人連れは、無事たどりついたでしょうか。
   浅草観音

浅草金龍山」(名所江戸百景・冬景色だが)



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