「猫定」


 
あらすじ 八丁堀の玉子屋新道に住む定吉は、表向きは魚屋だが本業は博打打ち。
ある日、居酒屋の三河屋で殺されかけているを可哀そうと、わずかな金で譲る受ける。真っ黒な毛並みの猫なので、熊と名づけたこの猫がサイコロの出る目を読めることに定吉は気づく。「にゃーぉ」と鳴けば半で、「にゃーぉ、にゃーぉ」なら長と言う具合だ。猫は魔物なのか、猫は恩返しのつもりなのか、まあ、そんなことはどうでもいい。

 定吉はいつも猫を懐(ふところ)に入れての賭場通いとなり、猫のおかげで大儲けして羽振りもよくなり、回りから定、定さんと呼ばれていたのが、いつも猫を連れているので猫定の兄貴、親方なんて言われるようになる。

 ある時、江戸に居るのがやばくなり一時、旅に出て身を隠すことにした。猫は猫嫌いの女房のお滝と家に残したままだ。「旅の留守家(うち)にも護摩の灰がつき」、亭主の留守を幸いとお滝は若い男を家へ引っ張り込む。しばらくして江戸に帰って来た定吉はまた賭場へ行き始める。間男といい思いを続けたいお滝は亭主が邪魔になり、男に定吉殺しを頼む。愛宕下の藪加藤へ博打に向かう定吉の後を間男はつける。

 藪加藤の賭場で、この日に限って猫が”にゃん”とも鳴かずに定吉は大損し、今日は厄日と見切りをつけ、引き上げて家に向かう。新橋の鰻屋喜多川で一杯やり、ちょうど采女が原にさしかかった頃、ざあざあ降りの雨となった。真っ暗な雨の中、小用で立ち止まった定吉の後ろから、男が鯵(あじ)切り包丁で一突き。すると倒れた定吉の胸元から何か真っ黒い物が飛び出して男へ飛びかかった。

 一方、お滝は定吉殺しの首尾は如何にと間男の帰りを待っていると、引き窓のひもがぷっつりと切れて、窓から黒い物が飛び込んできて、お滝の喉(のど)へ噛みついた。夜中に怪しげな物音と、女の叫び声で月番が何事かとやって来ると無残なお滝の死体。翌朝、采女が原で殺されている定吉も見つかった。そばに若い男も喉をかきちぎられて死んでいた。

 その夜、長屋で二人のお通夜となった。夜も更ける頃、お棺の蓋がはずれて、定吉とお滝の死体が立ち上がった。酒の酔いも眠気も醒めた長屋の連中は腰を抜かすほどびっくりして逃げ出して行った。ただ一人、死体の前に平然と座っている按摩の三味市(しゃみのいち)を残して。

 そこへやって来たのがもとは信州松本の浪人の真田某。さすがは武士、不気味に立っている二人の死体を目にしても少しも動ぜず、あたりを見回すと壁に貼ってある紙がペラペラと動くので、短刀でプスリと突くと、”ぎゃあ”という声。見ると黒猫が両手に人の喉の肉片をつかんで死んでいた。さては猫が女房の不義と定吉殺しの仇討ちをしたものだと評判となった。

 この噂をを耳にした時の町奉行根岸肥前守から二十五両の金が出て両国の回向院に猫塚を建てたという、猫塚の由来の一席。




  
「にゃーぉ、にゃーぉ」で”長”で大儲け


 「玉子屋新道(たまごやじんみち)」は八丁堀岡嵜(岡崎)町内で、現在の中央区八丁堀3丁目。「江戸切絵図」(尾張屋の文久2年版)の『八町堀細見絵図』の左方の中央あたりに「玉子ヤシンミチ」がある。




玉子屋新道 《地図


 
藪小路(やぶこうじ)(『名所江戸百景』・『江戸名所図会』)(港区虎ノ門一丁目)
近江水口藩加藤越中守の上屋敷があり、俗に藪加藤と呼ばれた。
この屋敷内の大部屋(中間部屋)で賭場が開かれた。川は桜川
水口城跡は『東海道(水口宿→石部宿)』に記載。



采女が原(『江戸名所図会』) (中央区銀座5,6丁目)
享保9年(1724)までここに今治藩主松平采女正定基の屋敷があったが、
同年の火事で焼けて麹町に移った。その跡地が上地となって、
享保12年に馬場ができた。昼間は馬場の土手下に掛け小屋や
大道芸人の野天興行が並んで賑やかだが、夜は追剥の出る寂しい所だった。
        


三遊亭圓生の『猫定【YouTube】



猫塚(右端下)
今は新しい祠に入っているようだ。中央は鼠小僧次郎吉の墓で、
墓石のカケラを持っていると、ご利益が厚いというので
墓石を削って持って行く者があとを絶たないため、前の白っぽい石は、削りようの墓石。
親切にも左の立札に、「こちらの「お前立ち」をお削りください」と書いてある。
後ろに過去に削られてしまった沢山の鼠小僧の墓がある。
猫塚の上には猫の彫り物があったが、鼠小僧の墓と間違われて削られ丸くなっちまったそうだ。
人間の強欲さには猫もねずみも頭が上がらないだろう。





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