「ねずみ」


 
あらすじ 日本橋橘町の大工の棟梁、政五郎の家に居候の身の左甚五郎。見聞を広めるためか、ただの物見遊山か奥州への旅へ出る。

 仙台城下で客を引いている子どもに、「おじさん、うちに泊まっておくれよ」と袖を引かれて鼠屋という宿に入る。使用人などはいなく腰の立たない卯兵衛と十二になる子どもの卯之吉二人だけでやっている宿とは名ばかりで物置小屋のような粗末な家だ。

 足をすすぐのは裏の小川、夕飯は父子二人分込みの出前の寿司、布団は貸布団という宿らしからぬことばかりで、甚五郎が二分払うと卯之吉は酒を買いに行った。
甚五郎 「なぜ、女中などを置かないのか?」と、卯兵衛に問うと、

卯兵衛「もとは向かいの虎屋の主人でしたが、五年前に女房を亡くしました。古くからいる女中のお紺を後添えにいたしましたが、これが番頭の丑造とくっついて私をないがしろにし、卯之吉につらく当たっていじめました。ある時、二階の座敷で客同士の喧嘩の仲裁に入ったところ、喧嘩の巻き添えを食って階段から転がり落ちて、こんな身体になってしまいました。お紺と番頭は私たちが邪魔になり、ここへ追いやりました。ここは元は物置で、友達の生駒屋の計らいで宿を始めました。ここは鼠が多いので鼠屋という名にしました」

 話を聞き終えた甚五郎は、適当は木端を持って二階に上がった。卯兵衛が宿帳を見ると天下の彫り物師でびっくり仰天。二階の甚五郎はその晩、精魂込めて一匹の小さな鼠を彫り上げた。

 翌朝、甚五郎は木の鼠を盥(たらい)に入れて竹網をかけると、左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧になりたい方は、土地の人、旅の人を問わずぜひ鼠屋にお泊りくださいと書いた札を入口に揚げさせ、「あるじ、卯之吉、世話になった」と出発した。

 すぐに通り掛かった近所の百姓が札に気づく。むろん甚五郎の名は百姓までにも知れ渡っている。早速、鼠を見せてもらうと、あな不思議、盥の中の鼠がちょろちょろと動き回った。びっくり仰天、さすがは甚五郎と感心だが、家はすぐ近くだが鼠屋に泊まるハメになった。

 さあ、この噂はすぐに広がって鼠を一目見ようと、次から次へと見物人が押し寄せ、それがみんな泊って行くから鼠屋は大繁盛。裏の空き地に建て増し、使用人も何人も置くようになった。

 それに引き替え向かいの虎屋には悪い評判が広がり、客足は遠のく一方で閑古鳥が鳴く有り様だ。困った丑造は仙台城下一の彫刻名人・飯田丹下に頼んで、大金を払って大きな木の虎を彫ってもらって、二階に手摺り置いて鼠を睨ませた。大きな虎の威力に怯えたのか鼠はピタッと動かなくなってしまった。

卯兵衛 「畜生、こんなことまでしやがって・・・」と、怒ったとたんに腰が立った。ずっと立たないと思って立とうとしなかったから立てなかっただけで、立とうと思えばとっくに立てただけなのだが。卯兵衛は江戸に帰っている甚五郎に、「おかげさまで私の腰が立ちましたが、鼠の腰が抜けました・・・」と手紙を送った。

 どうしたのかと不思議に思った甚五郎は二代目政五郎を連れて仙台へやって来た。卯兵衛に言われて虎屋の二階を見ると大きな虎がこっちを見ている。

甚五郎 「なあ、政五郎、あの虎をどう思う?」

政五郎 「金で作らされて魂が入ってないうつろな、卑しい目をしてまさぁ。立派な虎は額にという字が浮かぶと言いやすが、あのトラには何の風格もありゃしません。ちっともいい虎とは思いやせん」」

甚五郎 「そうだろう。あたしもいい出来とは見えない。おい、ネズミ、俺はお前を彫る時に魂を打ち込んで彫り上げたつもりだけど、お前はあんな虎がそんなに恐いか」

鼠 「えっ?あれは虎ですか。てっきり猫と思いました」



    


 日本橋橘町は現在の東日本橋三丁目。振袖火事で焼けて築地に移るまで、この町の東側に西本願寺があった。その門前の町屋で、立花を売る店が多くあったので、立花町と唱えたのが町名のもとという。
このあたりには踊り子(町芸者)の住居が多かった。いわゆる柳橋芸者で、
「たちばなをふところにして二分とられ」、などの古川柳が残っている。(「落語地名辞典」より)


        



仙台城跡(青葉城)の伊達政宗像
『奥州街道(仙台市の坂①)』





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