千川通りから離れて西武池袋線の南北に寄り道しながら進む。 この一画は鉄柵で囲われ近づけない。 台石(写真には写らず)が「道しるべ」になっていて、 「西 此方 た可いど 大山ミち」などと刻むようだ。 高井戸と大山道で、北方には「ふじ大山道(富士街道)」もある。 御嶽神社 八幡神社の北側あたりにあるはずの「首つぎ地蔵」が見当たらない。 あたりの雰囲気から南蔵院にでも移設されたのかと思ったら当たっていた。 南蔵院の入口が分からず一周近く回ってしまった。 南蔵院 首つぎ地蔵(もとは八幡神社の北側の地蔵堂にあった) 首と胴体が離れ離れになっていた地蔵が、 信心深い二人の夢枕に立ち、首がつながったという。 昭和初期の不況時には、「首切り」を免れようと参拝者で賑わったという。 いずれも千川上水沿いにあったもので、日川地蔵は溺死した子供たちの供養塔という。 学田公園 《地図》 千川上水から引いた用水による「学校の田んぼ」があった。 矢原稲荷神社 《地図》 由緒などは分からず。 西武池袋線の北側に出る。 白山神社の大ケヤキ 今は一本しかなく、かなり弱っているようだ。 石段上のもう一本は昨年3月に伐採・撤去されてしまった。😢 浄土宗11カ寺 (田島山11カ寺)が並ぶ。《地図》 「快楽院」もある。人間、煩悩解脱とはいかないのを悟ったか。 九品院 高級料亭風な造りだ。 そばざるに賽銭がうず高く積まれている。坊さんも「蕎麦より銭」で嬉しそうだ。 阿弥陀如来坐像(貞享4年(1687)) 11ヵ寺の守護仏 千川通り(千川上水跡)に戻る。2時間ほど費やした。 千川通りは豊玉北6交差点~南長崎6交差点までは清戸道と重なって行く。 筋違橋の復元親柱 《地図》あたり 馬頭観音(東神社境内) 《地図》 筋違橋のそばから移設された橋供養観音だろうか? 右の石薬師如来(安永5年(1776))は他所から移設されたものだそうだ。 清戸道・桜の碑 環七通りを横切る。 武蔵大学 中新井分水が構内を流れ、濯(すすぎ)川と呼ばれているという。《地図》 武蔵野稲荷神社参道 意外と大きな神社だった。 戦後、天理教の流れの日の本神誠講が再興したからだろうか。 ここは質素というか、まさに穴守という感じだ。 豊島区に入る。 南長崎6交差点・千川上水跡は左折して北上し、 清戸道は直進する。ここに水番所があったそうだ。 《地図》 車道と段差のある千川上水跡 千早高校の所で都道420号から右に分かれて行く。 千川親水公園 《地図》 橋石の一部のようだ。 このあたりから長崎分水が右に分かれ、谷端川の流れに合わされる。 千川上水跡は直進し、要町3交差点を横切って行く。 豊島区と板橋区の境の板橋高校沿いを流れていた。 板橋交通公園前の説明板 《地図》 再び都道420号に出る。 水神祠(説明板の後ろ) もはや上水と呼べる状態ではないか。 川越街道(国道254号)を横切り、旧川越街道と少しだけ合流する。 旧川越街道の大山ハッピーロード商店街 東上線の踏切あたりが大山橋跡、板橋税務署あたりが青山水車跡のようだ。 山手通りを横切り、中山道(国道17号)へ進み、板橋郵便局の所で右に入って行く。 緩やかな下りの流路跡 右側の板橋駅前公園あたりに板橋火薬製造所 (後の造兵厰板橋製造所)への分水口があったそうだ。 今は公園にバーリントンの石が置かれている。 埼京線を横切る。 線路の東側に石神井川へ流れる分水があったそうだ。 馬頭観音の祠 《地図》 板橋駅東口のそばには近藤勇の墓がある。 尾根筋の流路跡で特に右側が低くなっている。 《地図》 右側の滝野川市場通り 千川上水分配堰碑(明治15年・左の標石) 《地図》 上水の水利権の明確化、取水量の遵守のために設置。 ここは鎌倉街道(中の道)でも通った。 六義園給水用千川上水沈殿池の導水門 向こう側に沈殿池の排水門(千川上水公園内) 千川上水の水は戦後六義園、都水道局、大蔵省印刷局抄紙部、王子製紙などで利用され、 余水は本郷・小石川・下谷・浅草・神田方面に飲料水を供給していた。 六義園は昭和43年都営地下鉄の工事で引水が不可能となり、井戸水に切り替え、 昭和45年に都水道局が取水を中止し、昭和46年に大蔵省も工業用水道に切り替えた。 ここを千川上水歩くの終点とし、堀割バス停からJR王子駅に出た。
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