由緒碑の一部:「谷端川の源泉」とある。 フラワー公園 長崎八幡神社 江戸時代の中期には十羅刹女社とも呼ばれていた 金剛院山門(赤門)・長崎不動尊・地蔵道標(左端) 山門(赤門) 安永9年(1780)の建立 中山道板橋宿と堀の内の妙法寺への道標。 右は長崎不動尊 板碑:後方右は阿弥陀如来像が線刻、左(永享12年(1440))は大日如来などの梵字が刻まれている。 椎名町駅を横切り東流し、山手通りをくぐって行く。 宮下橋跡から谷端川南緑道となる。 祥雲寺坂を横切って行くが、雲のつく3か寺に寄る。 《地図》 祥雲寺 首斬り浅右衛門(七代目)、酒豪の三浦樽明(戒名「酒徳院殿酔翁樽枕居士」)の墓があるが、 葬儀中で境内に入るのは控えた。 洞雲寺 ルーテル教会 今年は宗教改革500年 功雲院(鳩寺) 低地の谷端川南緑道に戻る。《地図》 豊島区と板橋区の境の谷端川跡沿いを進む。 川越街道(国道254号)を横切る。 谷端川北緑道に入る。 東上線を横切る。 三の橋あたりの緑道の桜並木 緑道は終わり、矢畑川地下ガードで板橋駅をくぐって行く。 谷端川跡は豊島区と北区の境となる。 都電荒川線・JR大塚駅を横切る。 ここからは4月12日に歩いた。『都電荒川線A』と一部重なって行く。 大塚三業通りに入る。 《地図》 花街、歓楽街に似合いの姿見橋・見返り橋が架かっていたそうだ。 あさみ(浅見)坂、さいとう(斉藤)坂が谷端川へ下っていた。『豊島区の坂@』 ♪「からたちの花」♪【YouTube】 南大塚一丁目児童遊園・丸山ちよ碑(左) 「この街で おゝくの子らの 母であった 丸山ちよ先生 灘尾弘吉 書」 砂利場坂は小石川・礫川(こいしかわ・れきせん)の名が示すように、 坂下に砂利取り場があったのだろう。《地図》 猫又坂 《地図》 坂下の千川(谷端川)に猫又橋が架かっていた。 猫狸橋(『江戸名所図会』) このあたりの坂は『文京区の坂D』に記載 湯立坂を上る。 窪町東公園 右は占春橋跡 教育の森公園(旧東京教育大学(現筑波大学)の跡地) 湯立坂を下る。 右は旧磯野家住宅(銅(あかがね)御殿)の表門 氷川坂 御殿町尋常小学校跡(現小石川消防署) 明治45年開校〜昭和21年廃校 小石川植物園を散策する。 花見の高校生?たち。むろんノン・アルコールだろう。 植物園を出る。 御殿坂 播磨坂(右)・吹上坂(左) 極楽水標石(吹上坂の途中の宗慶寺門前) 極楽水からの流れか? 「極楽水」(『江戸名所図会』) 茶阿局 家康の側室には阿茶局もいる。NHKTVの真田丸では斉藤由貴が演じていた。 喜運寺の門は閉まっていた。 どうせ豆腐地蔵は秘仏で拝めないようだが。 岡埜栄泉 布袋尊像は元は本郷の三井屋敷にあったものとか。 「岡埜栄泉」は都内に30数店あり、本家・元祖争いもあるようだ。 善光寺坂・善光寺 ムクの木 沢蔵司稲荷の神木 礫川・小石川にちなむ句だ。 沢蔵司稲荷 ミニチュアの模型のように見える? 「澤蔵主稲荷社」(『江戸名所図会』) えんま通りを「こんにゃく閻魔」源覚寺に向かう。 こんにゃく閻魔像:右眼が黄色く濁っているかはよく見えず。 「汎太平洋の鐘」は流浪の鐘だ。 シビックセンターに向かって行く。 神田川との合流地点が近づく。 (令和元年に春日局像は菩提寺の麟祥院前の区有地(麟祥院前ポケットパーク)へ移設された。) 今日は広島戦で観客が列をなしていた。今日も明日も敗戦とは知らずに。 ジェットコースターに乗ったのはいつの日だったか。記憶もおぼろだ。 水が流れ落ちている。谷端川歩きの最後にやっと流れる水に巡り逢った。 水道橋(神田川)から防災船着場(右) |