王子駅前駅から早稲田駅まで沿線沿いを歩く。 北区〜豊島区〜文京区へと進んで行く。 今日は気温が20度位まで上がって、昼間は上着がいらないほどの陽気だった。
2009年から運行しているのに知らなかった。 かたつむりに似ていて愛称は「アスカルゴ」だそうだ。 ![]() ![]() 飛鳥山公園沿い ![]() 滝野川不動尊(本智院) 《地図》 右の祠が身代地蔵尊・奥が大日如来?の祠。
![]() 東京歯科衛生専門学校 《地図》 日本庭園をもつ邸宅跡地に建設。第1回北区景観賞受賞 ![]() 正面の分岐点左は庚申塔道標(元文5年(1740))で、「これより右王子道」で今来た道・ 「これより左弁天道」で、松橋弁財天(『石神井川を歩くA』)への道。右は馬頭観音 《地図》 北区から豊島区に入る。
![]() お岩様(四谷怪談)の墓 新宿区左門町に「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷陽運寺」が、 中央区新川にも「於岩稲荷田宮神社」がある。 (『新宿区の坂@』と『落語散歩』にも記載) ![]() 妙行寺はもとは四谷鮫河橋南町にあり、御家人の田宮家もそこにあって檀家だった。 ![]() 赤穂浅野家瑤泉院の供養塔(左) 瑤泉院の祖母高光院の供養塔(中) 浅野大学長広の夫人の蓮光院の墓(右) ![]() 善養寺 江戸三大閻魔の一つ ![]() ![]() ![]() 大都映画巣鴨撮影所跡 《地図》 跡地の朝日中学校も廃校となり、「にしすがも創造舎」が校舎などを利用しているが、 その事業も縮小しているようだ。(活動は2016年12月をもって終了) これもお岩様の祟りかも? ![]() 西方寺 浅草聖天町にあって「土手の道哲」と呼ばれた寺で、二代目高尾太夫の墓がある。 二代目高尾は落語の『高尾』・『反魂香』のモデルで、墓は浅草の春慶院にもある。
巣鴨庚申塚(『江戸名所図会』) ![]()
左の写真の左端が延命地蔵(江戸時代初期?)・中が題目塔・右が徳本名号塔。 右の写真の左が馬頭観音、右が地蔵庚申塔で 「是より小石川おたんす町之ミち」と道標も兼ねていた。 ![]() ![]() 明治女学校跡 《地図》 ![]()
奥の地蔵などの祠の前に明暦2年(1656)の庚申塔が立ち、 祠内に大日堂を建てた春海上人の石碑と伝えられるものがある。 ![]() 都電荒川線を横切り、折戸通りへ出て南へ大塚駅方向に進む。
かつてここを流れていた谷端川沿いにあって移設され、平成11年に元の位置あたりに戻った。 ここはJR大塚駅前で昔は川が流れていたとは想像もできない光景だが。 ![]() 滝不動のビルの一画あたりに巣鴨平民社があったようだ。(北大塚2-14) 幸徳秋水が明治41年10月から翌年3月まで居を構えていた。 大逆事件の時に、そこが共同謀議の場所とされた。 その当時は谷端川も流れていたのだろう。 幸徳秋水の墓は高知県四万十市にある。『四国遍路道(高知県M)』 ![]() 傷兵院旧址碑(巣鴨公園) 日露戦争での傷病兵の廃兵院跡で、後に傷兵院に改称されたそうだ。 もとは松平播磨守の屋敷で東都一のもみじの名所だったという。 ![]() 子安天満宮 春っぽさを感じる。 ![]() 大塚駅前駅あたり ![]() 大塚三業通り 《地図》 昔この近くに勤めていたことがある。その頃も花街の面影は消えつつあった。
石段下近くの右の道標には、「右 大塚 向 巣鴨監獄 左 巣鴨庚申塚」 巣鴨監獄(巣鴨拘置所の前身)は東池袋のサンシャインシティの所にあった。 道標の上の植え込みの中に「疫牛供養碑」がある。 明治43年に牛乳搾取業巣鴨支部が建てたそうだ。 ![]() 都電沿いに戻る。
春日通りを横切って行く。
昨年の10月にさいたま市局に移転した。 古い石垣が残っている。もとは何が建っていたのだろうか?跡地はどうなるのか? 首都高5号をくぐる。 ![]() 本教寺 服部嵐雪・歌川豊春の墓があるが入口が分からず。
榊原高尾(六代目高尾太夫)の墓を探したが分からず。
![]() 法明寺
酒井抱一の朝顔の絵と、「蕣や くりから竜の やさすがた」 富久 富久は彫金師で「藪そば」の雑司ヶ谷店の主人・戸張喜惣次の俳号 梵鐘は寛永21年(1644・正保元年)の鋳造で、享保17年(1732)の再鋳。 鐘銘には「寛永廿二甲申十二月・・・」とあるそうだ。 ![]() 観静院 雑司が谷七福神の弁財天 弦巻川跡を横切って行く。 ![]() 雑司ヶ谷鬼子母神堂
雑司ヶ谷七福神の大黒天 ![]() 大イチョウ ![]()
![]() 弦巻川暗渠化記念碑(昭和7年) 大鳥神社北側を西から東へ弦巻川が流れていた。 周辺は宅地化が進み、川は汚れ悪臭を放っていた。 「公衆衛生ノ根本的解決」のために弦巻川は暗渠化された。 都電荒川線を横切る。 ![]() 宝城寺 左は「祈雨日蓮大菩薩」塔 ![]() 御嶽坂(左は清立院)・右は木村橋供養塔(享保18年(1733))で、 木村家によって木橋から石橋によって架け替えられた。 正面には「南無妙法蓮華経」と刻まれている。 後ろに小さな白鳥稲荷がある。 手前右方向に弦巻川が流れていたようだ。 ![]() 清立(せいりゅう)院 雨乞いと皮膚病(かさもり(瘡守)薬王菩薩安置)の祈願寺として尊崇された。 「清立院 日親堂 請雨松 宝城寺」(『江戸名所図会』) 絵の下方を左から右へ弦巻川が流れている。
![]() 宣教師通り 《地図》 ![]() 雑司ヶ谷旧宣教師館 区内最古の木造洋風建築 ![]() 本浄寺 甲州身延山七面の像を祀る。 小篠坂を下って文京区に入る。 ![]() 清土鬼子母神堂 《地図》
その手前左が涼月塚で、「此の道に出て涼しさよ松の月」の芭蕉句碑(文化9年(1812)) 右が雑司ヶ谷七福神の吉祥天 大イチョウの根元の道標(文政6年(1823))には、 「これより右みのぶ山ひながた七面堂きしも神出現道」で、七面堂は本浄寺のこと。 もとは鬼子母神堂の裏の弦巻川沿いに立っていたようだ。 「清土 星の清水」(『江戸名所図会』) (中央右に井戸があり、左方を弦巻川が流れている) ![]() 湧き水の古釜(清土鬼子母神と弦巻通りの間の小道) ![]() 菊池寛旧宅跡 《地図》 昔、菊池寛をフランキー堺が演じる映画『末は博士か大臣か』(1963年製作)を見たことがある。 『恩讐の彼方に』の耶馬渓の青の洞門を訪れたのも大昔のことよ。 ![]() ![]() 三角寛旧宅 山窩(サンカ)の研究者
「雑司が谷がやがやお散歩マップ」に載っている坂。 清立院か雑司ヶ谷霊園の南の坂ということか? 《地図》 坂下あたりには弦巻川の南坂橋が架かっていたようだ。 もう4時過ぎでさすがに寒くなってきた。 都電沿いには戻らず南坂の坂下の商店街を南方向に進み、 稲荷坂を下って神田川を渡り早稲田駅に出た。 ![]() 稲荷坂 このあたりには宿坂・のぞき坂などの急阪が並んでいる。 ![]() 仲之橋(神田川) ![]() 早稲田駅
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