「武助馬」
★あらすじ 店を辞めてから久しい武助がぶらりとやって来る。武助は八百屋・魚屋・本屋・・・と色々やってみたがしくじったり、飽きたりして長続きせず、どうせなら好きな芝居で身を立てようと、上方へ行って嵐璃寛の弟子になったという。蜜柑(みかん)という名をもらって励んだが上手くいかず、やっと3年経った頃、初めて役を貰った時は嬉しくて前の晩は寝られなかった。何の役か旦那が聞くと、これが「忠臣蔵五段目」の猪の役で、これが上手かったのか「お前は猪に向いている」と褒められた。それから次は「菅原伝授忠習鑑」の牛の役だった。人並の科白(せりふ)のある役はつかず、思い切って江戸へ帰って来たという。
旦那「今はどこにいるんだい」、武助「今は中村芝翫のところで弟子に」、旦那「親方代えていいのかねえ 相変わらず蜜柑か?」、武助「いえ、一貫五百といいます。この度やっと新富座へ出ることになりましたので、是非ひとつご贔屓(ひいき)に」、旦那「こんどは何をやっているんだ」、武助「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)で、”組み討ち”のところに手前も出ることになりました」、旦那「そうかい、でもあそこはあんまり役者は出てこないよ」、武助「へえ、馬になって大将乗っけて一生懸命歩いています。是非みなさんと見にいらしてください」
こんな成り行きで人のいい旦那は店の者を引き連れ、俄か贔屓連となって新富座へ芝居見物となった。旦那は楽屋の方にも気を配っていろいろと差し入れをする。楽屋の連中がそのお礼を武助にするから武助も気分がいい。二幕前から馬の歩く稽古をしてやる気満々だ。出番が近づいてくると差し入れの鰻を食って、酒に酔って寝ている馬の足13年のベテランの熊右衛門を起こしにかかる。
まだ酔ってヒョロついている熊右衛門が前足に入る時に一発放った。その臭いこと。後ろ足の武助はたまったもんではない。さあ、いよいよ熊谷直実の芝翫を乗っけて花道に登場だ。馬上の芝翫には声が掛かるが、武助の方には掛からない。そりゃ当たり前だ。旦那は連れてきた贔屓連に褒めろと催促する。褒めないと割り前を取るとおどされた連中は、「いいぞ、馬の足、本物」、「よっ馬の足 後足の方だ。動きが細かいぞ、武助馬、日本一!」とやけくそだ。
役者になって初めて声が掛かって喜んだ武助はピョンピョン跳ね上がり、前足の方は酔ってフラフラしているから乗っている親方はしがみついているのがやっとで芝居どころではない。花道から本舞台へかかった途端、武助さん、ここ一番と気合を入れて「ヒヒヒヒィヒヒィーン」といなないた。観客は大笑いで芝居にはならず一幕、目茶苦茶となってしまった。怒った親方(芝翫)は武助を呼ぶ。
武助 「相済みません。嬉しかったもんですから、跳ね上がったりし。
さぞかし乗りにくかったことでしょう」
親方 「そんなこたぁ グズグズ言わねぇ てめえ、鳴きゃあがったろ」
武助 「へえ、鳴き声はいかがで・・・・」
親方 「まだ分からねえか なんだって後ろ足で鳴きゃあがったんだ」
武助 「でも、熊右衛門さんは前足でオナラをしました」
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忠臣蔵五段目の猪、一人だけ入って前足は作り物
『歌舞伎の馬、猪、四天』より
歌舞伎の馬 『歌舞伎の馬、猪、四天』(左)
「一谷嫩軍記」二段目「組討」:熊谷次郎直実が沖へと向う平敦盛を呼び戻すという場面。
四代目中村歌右衛門の直実、初代中村福助の無官太夫あつ盛。
嘉永3年(1850)5月、大坂中の芝居。五粽亭広貞画 (「ウィキペディア」より)
★立川談志の『武助馬』【YouTube】
▼この落語の原話は、鹿野武左衛門の「鹿の巻筆」の中の「堺町馬の顔見世」で、この小咄からヒントを得た神田須田町の浪人の筑紫団右衛門と八百屋の惣兵衛は、元禄6年(1693)に江戸にソロリコロリという悪疫が流行した時、馬が人語を発して「南天の実と梅干しを煎じて飲めば即効あり」と流布し、買い集めた南天の実と梅干を売って暴利を貪った。南町奉行の能勢出雲守頼相が二人を捕らえ、団右衛門は市中引き廻しの上、死罪。惣兵衛は伊豆大島へ流罪となった。このとばっちりを受けたのが鹿野武左衛門で、「鹿の巻筆」は絶版、伊豆大島へ流されてしまった(異説あり)。元禄12年に赦免されて江戸へ帰ったが過労がたたってその年の8月に死んでしまった。
▲武助さんが弟子入りした嵐璃寛と中村芝翫は、代目が違うが落語『孝行糖』にも少し縁がある。
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「源平史蹟戦の濱碑」から須磨の浦
一の谷から西一帯の海岸は「一ノ谷の戦い」の激戦地で、「戦の濱」と言われ、須磨浦公園の東端に石碑が立つ。一ノ谷の逆落としがあった旧暦2月7日早朝には馬のいななきが聞こえるとか。
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敦盛塚 《地図》
熊谷直実に討たれた平敦盛の供養塔であると言われる。「説明板」
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