「源平盛衰記」


 
あらすじ 「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、・・・」(平家物語

 平治の乱で敗れた源義朝の愛妾の常盤御前は三人の子どもを抱えて悲しみに暮れている。そこへ訪ねて来たのが平宗清で、「うちの大将はお前さんにぞっこん惚れこんでいるよ。大将の意に従えば三人の子どもの命は助かけてもらえる。これが操を破って操を立てる、破る操が真の操ということだ」と説得され、平清盛に身をまかせて世話になる。

 牛若は七歳になると鞍馬山へ預けられ仏門に入らされるが、鞍馬の天狗から武芸十八般を教わり、鞍馬を抜け出し五条大橋で弁慶をこらしめ家来にする。

 牛若は元服して義経と名を改め、金売吉次に伴われて奥州、藤原秀衡のもとに向かう。途中、美濃国の青墓長者の家に泊まった。

 その夜、大泥棒の熊坂長範の一味が押し入った。義経はここはまかせろと長範と渡り合い、長範が切ってかかるところをと小手を打つ。あまりの痛さにべそをかいて薙刀を取り落とした長範が後へ下がるところを義経はえいっと首を切ったが血が出ない。

 そこで今度は向う脛をかっ払った。長範がばったりと倒れるところを踏んづけると、血が出ないでアン(餡)が出た。思わず義経、「こりゃあ、熊坂でなくて今坂(饅頭の種類)だ。つぶして出たからつぶしアンだ」、義経は杖にしてきた葦を地面にさして、「さしおくも形見となれや後の世に 源氏栄えば よし竹となれ」と詠んで東国へ向かった。

 一方、京の都では清盛以下、平家の増長、専横ぶりに以仁王の平家追討の令旨が下る。これに呼応していち早く都へ乗り込んできたのが木曽義仲だ。倶利伽羅峠の一戦で牛の角に松明をつけた火牛の計で平家の軍勢に突っ込んだ。急に火がついたバーベキューの群れが飛び込んで来て平家勢は大混乱、水をかけても焼け牛に水とはまさにこのこと。ついに義仲勢は平家軍を蹴散らして都に攻め入った。

 入京した義仲は所詮、木曽の山中育ちの山猿で乱暴、狼藉、放埓な行いは平家以上だ。困った後白河法皇は伊豆に配流中の源頼朝に義仲追討の命を下した。絶好のチャンス到来と頼朝は東海道を上って喜瀬川の宿に陣を張っていると、奥州から頼朝の挙兵を聞いた義経が馳せ参じて、兄弟の初対面となる。

 義経は範頼と六万余騎を率いて都へ乗り込んで粟津の一戦で義仲を滅ぼした。義経はその勢いを以って西海に平家を追討すべく寿永三年二月七日、摂津播磨の国境の鵯越(ひよどりごえ)の天険に上る。下の一の谷には平家十万の白旗が翩々(へんぺん)と翻っている。

 さあ、この断崖絶壁を馬は下りられるのか。義経は源氏と平家になぞられた馬を下ろして見る。平家の方の馬は前足を折って倒れたが、源氏の方の馬は見事に着地成功でスックと立って金メダル確定だ。

 早速、義経は軍勢に下りろと命令したがみなたじろんで動かない。
侍 「大将、ここを下りるんですかい。こんなすごいとこは普段の手間賃では御免蒙りたい」

義経 「この期に及んで足元を見るのか。よし、戦時特別手当を支給しよう」ということで手を打った。これが名代の費用取越という。

 義経軍は平家を屋島の合戦へと追い込んで行く。夕刻がせまり、戦いも一段落した頃、平家方から一艘の舟。その先へ棹を立てて、棹の先に扇を開いて結んでこの扇を射てみよと手招きをしたのが、ミス平家と歌われた、柳の前という美女。

 よし見ておれと義経が数多の強者(つわもの)の中から選抜したのが、下野住人、下野高校の剛速球投手で弓の名人のた那須与一宗高だ。

 那須与一、おまかせあれと、白毛の駒に打ちまたがり、波打ち際へ来て、はるか彼方の扇の的を見渡し、ザブッザブッと駒を波間に乗り入れ、弓に矢をつがえ、満月のごとく引き絞り、弓矢八幡を念じ、再び目を開けば、 風もいささか収まれり。

 矢をヒョ ウと放てばあやまたず、見事、扇の要を射貫き、はるか中天に飛んだ扇面は春風に一揉み二揉み揉まれて波の上に漂う。折から、沈みかけたる夕日に照 り添え、得も言われぬ風情。静まり返っていた敵も味方も一度にどっとどよめき渡り、歓呼の声はしばし鳴りやまず。

 壇の浦で平家軍を追い詰めた義経が、笛の音がする一艘の御座船に飛び移ると、これが安徳天皇を抱いた二位の尼、平時子の泣き声。義経は時子の後ろに回り介錯しようとすると、能登守教経が割って入る。強弓の教経は屋島の合戦で義経を狙って矢を放ったが、忠臣の佐藤継信が身代りとなって矢を受けて死んでいる。

 時子すこしも騒がず、声朗らかに辞世を八木節で、♪「あ~あ、さても一座の皆さま方よ、ちょいと辞世を読み奉る。長門壇の浦で切らりょとままよ」

義経 ♪「抜いた刀がしまわりょか、よいしょ」、教経も仕方なく「ピッ、ピッ、ピィヒャララ・・・」と踊り出した。

 能登守が踊ったばっかりに、平家が西海に没落した。「踊れる(おごれる)平家は久しからず」







見返り坂(『天覧山・多峯主山』) 「説明板
常盤御前が景色のよさに振り返りながら上ったという伝承の坂。
顔振峠には義経の伝承があるが、いずれもただの伝承に過ぎないようだ。
       



常盤御前の墓  「説明板
後ろは芭蕉句碑 「義ともの 心に似たり 秋の風」
ここにあった秋風庵は日守の茶屋に移った。
常盤地蔵」・『中山道(垂井宿→柏原宿)』



清盛くんと新川運河(兵庫運河の一つ) 「説明板



牛若(義経)息継ぎ水(鞍馬山) 「説明板
背比べ岩」(説明板

京都市の坂①



牛若と弁慶(河原町五条交差点・五条大橋西詰)《地図

伏見街道



義経元服の池 
承安4年(1174)、義経東下りの途中、この地で元服加冠した時に使った水の池。
ここで牛若丸から義経になったということ。『義経元服ものがたり

中山道(武佐宿→守山宿)』


鏡神社 《地図
左は「義経烏帽子(えぼし)掛けの松」の切り株。『説明板




青墓よしたけ庵 「説明板
青墓町に残る義経にまつわる伝説地

中山道(加納宿→垂井宿)』



対面石 「説明板
源頼朝と義経兄弟がここに腰掛けて対面したという。
後ろは「ねじり柿」か? 『東海道(三島宿→沼津宿)』



義仲寺(ぎちゅうじ)  「説明板」 《地図
木曽義仲の墓」・『東海道(大津宿→三条大橋)』



源平の庭(須磨寺境内)  「説明板
右が熊谷直実、左が平敦盛。
左は「笛の音に波もよりくる須磨の秋」の蕪村句碑

神戸市の坂①



「源平史蹟戦の濱碑」から須磨の浦
一の谷から西一帯の海岸は「一ノ谷の戦い」の激戦地で、
「戦の濱」と言われ、須磨浦公園の東端に石碑が立つ。
一ノ谷の逆落としがあった旧暦2月7日早朝には馬のいななきが聞こえるとか。
近くに「敦盛塚」(説明板)がある。

山陽道(神戸駅→朝霧駅)』



屋島合戦場方向(『四国遍路道(香川県④)』)

那須与一の「扇の的」、「義経弓流し」、「平家の舟隠し」などの伝承地。



壇ノ浦古戦場
古城山(門司城址・標高175m)から関門橋、関門海峡、
壇之浦(関門橋の対岸下あたり) 《地図

門司往還



時子・安徳天皇入水像 
朝鮮通信使
上陸淹留(えんりゅう)之地内 《地図
二位の尼(平時子)に「浪の下にも都の候ぞ」(平家物語)と言い聞かされ、
時子に抱かれて海中の都に旅立った。

山陽道(長府駅→下関駅)』



義経隠れ塔(吉野金峯神社《地図》の下)
追っ手がせまった義経はこの塔を蹴破り、さらに吉野の奥に逃れたという。



高館義経堂(義経自刃の地あたり) 「説明板」  

奥州街道(平泉→水沢宿)』

義経不死伝説』(説明板



義経寺(ぎけいじ)
北海道へ渡る義経が祈りを捧げたという観音像が安置

奥州街道(三厩駅→竜飛崎)』



厩石 「説明板
三厩の地名の由来ともなった、義経渡海伝説の三つの岩穴だが、
左の岩穴は崩れて今は二つだけ。この前に「源義経龍神塔」と「静御前龍神塔」が立つ。




甲岩(義経海浜公園から)
義経が無事北海道に渡れるようにと、大切にしていた甲(かぶと)を
海神にささげた場所にある岩だとか。確かに甲(兜)に似ている。




鷗島灯台
鷗島には義経の馬岩、弁慶の足跡などがある。

江差町の坂


600(2017・12)




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