「三井の大黒」

 
あらすじ 京の伏見で江戸の三井家大黒様を彫る約束をした左甚五郎は、ぶらりぶらりと東海道を江戸へ下る途中の三島宿で「竹の水仙」を彫り、やっと箱根を越え多摩川を渡り江戸に入った。
 神田八丁堀今川橋を渡った銀町の通りがかった普請場で大工の仕事ぶりを覗いて、そのぞんざいさ、へたさ加減にあきれて、「仕事は半人前、そのくせ飯は一人前」なんて言ったから、大工たちから袋叩きにされてしまう。

 棟梁の政五郎が割って入り、泊る所も決まっていないと言う甚五郎を橘町の自分の家に連れて帰る。政五郎が生国と名前を聞くと、生国は飛騨の高山という。政五郎が日本一の名人の甚五郎と同郷だが知っているかと聞くと、それは私だとも言えず、名前は箱根山を越えた時に忘れたと逃げた。名無しでは困ると、若い連中に自分の名前を忘れるほど、ポォ〜としているので、ぽんしゅうと名前をつけられてしまった。

 翌朝から政五郎は、ぽんしゅう(甚五郎)を仕事に出す。馬鹿にした若い連中は甚五郎に下見板を削らせる。午後までかかった仕事で出来たのがたったの二枚きり。甚五郎は板を水に浸してぴったりと合せ、剥がせるものなら剥がしてご覧と言って帰ってしまった。大工連中は板を剥そうとしたが、一枚の板になったみたいで全然動かず剥がれないのでびっくりだ。

 政五郎は小僧っ子の仕事の下見板削りをやらせた連中を叱り、ぽんしゅうに謝り、当分の間二階でゴロゴロしていてくれと頼む。そのうちにおかみさんから苦情が出る。

 政五郎はポンシュウの仕事は江戸向きではないから上方へ帰った方がいいと勧め、その小遣い稼ぎに恵比寿大黒でも彫って小遣い稼ぎをしていかないかと持ちかける。甚五郎は大黒と聞いて、三井家との約束を思い出して部屋に閉じこもって仕事の取りかかった。

 数日後、政五郎はあの熱心な仕事ぶりでは何十組もの大黒が彫れたと思って仕事場を覗くと、たった三寸ほどの大黒さまが一体だけ。それが政五郎を見て目を開けてニヤニヤと笑ったように見えた。

 ちょうどその時、甚五郎から手紙で大黒ができたと知らせを受けた駿河町の三井家の使いの忠兵衛がやって来た。政五郎もやっとぽんしゅうが甚五郎だったと悟る。甚五郎は代金の百両からお礼にと政五郎にぽんと気前よく五十両渡した。

 三井家で大黒と対になる恵比寿には「商いは濡れ手で粟のひとつかみ(神)」と書いてあると言うので、甚五郎は「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えた。三井に残る甚五郎の大黒でございます。


神田八丁堀は銀町堀、神田堀とも呼ばれ、龍閑橋から東へ流れて、橋本町で東南に直角に曲がって浜町堀と名が変わり、中州と箱崎の間で隅田川へ落ちていた。

今川橋は現在の鍛冶町一丁目から中央区へ渡す神田八丁堀の橋。
今川橋』(江戸名所図会) 《地図

銀町(しろがね)は正確には本銀町で、神田八丁堀の南岸に沿った町で、中央区日本橋本石町四丁目、日本橋室町四丁目、日本橋本町四丁目一帯。

橘町は中央区東日本橋三丁目で、明暦3年(1657)の振袖火事で焼けて築地に移るまで、この町の東側に西本願寺があった。その門前で立花を売る店が多かったので、立花町と唱えたのが町名のもとという。 《地図

駿河町は日本橋室町一、二丁目でほとんどを三井越後屋呉服店が占めていた。
駿河町三井呉服店』(江戸名所図会) ・ 「駿河町」(「絵本江戸土産」広重画)
江戸切絵図」の日本橋の北側


桂三木助の『三井の大黒【YouTube】


   三井越後屋ステーション
(銀座三越前)

(2006年3月18日撮影)

駿河町
   

三井家発祥の地 《地図

三井財閥の基礎を築いた三井高利が生まれ育った家。昭和57年に三井グループにより整備されたが内部は非公開。

伊勢街道B


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