★あらすじ 清八 「どや、いい景色やろここが舞子の浜や」
喜六 「どこに迷子がおる」
清八 「ここはな、昔、神功皇后さまが三韓征伐の際に童を集めて、ここで舞をまわしなさったとも、 このへん一帯の潮が、一時はここへ舞い込んで来るので舞い込みが浜、また、この松が舞を舞うた形に見える、それで舞子が浜とかいうな」
喜六 「わしはやっぱり舞を舞うた童が帰り道に迷子になったんからやと思うがな」
清八 「そやないわ、見てみい、松がみな潮風にさらされて姿がゆがんで、舞を舞うているよう見えるやろ。根元は砂が流されて根が上がってしまって、”根上がりの松”というのや」、敦盛塚のそばの敦盛そばを食って、菅の井戸跡、菅公手植えの松を見て、松風村松堂へやって来た。
清八 「昔、この地に流された在原行平が、退屈しのぎに須磨の浜を散歩している時に多井畑の村長の娘で「もしほ」に「こふじ」という、美しい二人の娘が汐汲みを しておった。行平が、”そなた達はいずれの娘じゃ”と問うと、娘は砂の上に”白波の寄する渚に世を過ごす 海女の身なれば宿も定めず”と書いた。行平は雛には稀な娘と感心して二人を側女にした。名前も「もしほ」に「こふじ」でなくもっとよい名を考えていると、松風がサーッと吹いてきて、村雨がパラパラと落ちて来たので、姉を松風、妹を村雨と名づけたんや」
喜六 「うまいこと風が吹いて、雨が降ってきよったなあ。雷が光って、ゴロゴロなったら、稲妻と雷電や」
清八 「それじゃ相撲取りやがな。三年経って行平は許されて都へ帰った。その時詠んだ歌が”立ち別れいなばの山の峰に生ふる 待つとし聞かばいま帰り来む”の百人一首で有名なの歌や。残された二人は頭を丸めて世捨て人になったが、行平さんのことを忘れられず、毎日、松の枝にすがって都の方を眺めていたら、その枝だけが残って、”都恋しき片枝の松”、姉妹の庵がこの松風村雨堂や」
あちこち見物しながら兵庫へと進んで行く。長田(ながた)神社に寄って、
清八 「ここは鶏肉と卵を断って願掛けすれば願いか叶うで。氏子の女子衆は歯を鶏の羽根を使うて染めているそうやで」
喜六 「それで時々、コケコッコ~と鳴くとか」、柳原惣門から兵庫宿に入って行く。
清八 「柳原には二つの名物、北風と幸辰があるねん」、
喜六 「何やそれは?」
清八 「北風は廻船問屋で、こら大したもんやで、お大名でも北風の鼻息うかごうたというぐらいや。北風の半被一枚持ってたら食うに困らんというのや」、「何でや?」
清八 「いつ船が入ってくるやら分らんさかいに、ここの台所にはメシと汁と漬物だけは切らしたことがない。何百人という人足が四六時中出入りしてて、腹が減ったら勝手に飯食うようになったあるねん。ちょっとこの半被を借りてひっかけて行たら、いつでもただで飯が食えたちゅうぐらいや」
喜六 「そらぁ、えらいもんやなあ」
清八 「この北風の大きな宴会を引き受けたのが料理屋の幸辰や」
喜六 「そら大きい宴会やろな」
清八 「そやから北風に当たって寒うなったら、コタツ(幸辰)に当たれ、てな言い草ができたんねん」、札の辻から鍛治屋町の浜に出て、
清八 「見てみいな。穏やかな波やで。向こうに見えたるのが淡路の岩屋の端(はな)、こっちが天保山の端、紀州加太の端、岸和田の端、近くが和田の端(和田岬)や」
喜六 「ハナばっかりやな。天狗の鼻や象の鼻はあらへんのか?」
清八 「そんなもん、あらへん。今日は凪やで、海一面青畳をひいたようやないか」
喜六 「畳にしては縁(へり)がないな」
清八 「海にへりがあるかいな」
喜六 「このあたりを海辺りという」
清八 「アホなことばかり言わんと、船に乗ろ。大阪まで足の伸ばして寝て帰るがな」
喜六 「板子一枚下は地獄ちゅうがな」
清八 「板子一枚上は極楽や。わしが請け合う」
喜六 「お前の請け合う言うは当てにならへんで。こないだ佐助はんとこの頼母子に入ったが、三っつ掛けたやつがつぶれたがな」
二人は鍛冶屋町の浜から船で大坂に向かう。
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