「桑名舟」


 
あらすじ
 お伊勢参り東海道を行く二人連れ、村の茶店で婆さんをからかいながら一休みするつもりが、逆におちょくられて街道を行く。尾張の宮宿熱田から伊勢の桑名までは七里の渡し舟旅となる。

 天気もよし、風も穏やかで舟は順調に沖へ出たが、しばらくするとピタリと動かなくなった。何があったのか乗客はざわざわし出し船頭に聞く。船頭が言うには、このあたりの悪いに見込まれた。鮫に人身御供を出さねば舟は動かないと言う。

 船頭は乗客が各自の持ち物を海に投げ込み、それが流れればよし、沈んだ者が鮫の犠牲になって海に飛び込む慣わしだと言う。あちこちで持ち物の投げ込みが始まる。二人連れの弟分は矢立を投げるなんて言っている。兄貴分は「流れそうな物を投げろ」に、弟分は「それなら質札」、まさに正解だ。幸いにも全員の物が沈まずに流れて行く。

 最後に講釈師が投げた懐紙が沈んだ。これで鮫の餌食は決定だ。みんな口では可哀そうだなんて言っているが、内心ほっとしている。
講釈師は運命とあきらめ、この世の名残りに講釈を一席語ってから死にたいと涙ながらに訴える。そして張り扇で舟縁をパタパタと叩きながら、「赤穂義士銘々伝、源平盛衰記、天保水滸伝、伽蘿先代萩、義経千本桜・・・・」と果てしなく語り出した。

 そのうちに舟は動き出して無事に桑名に着いてしまった。大喜びの舟の連中だが、海中では鮫の連中がもめている。
鮫の親分 「てめぇら、なんであの講釈師を呑まないで逃げたんだ」

鮫の子分 「しまった、あれは講釈師か、あまりパタパタ叩くから、かまぼこ屋かと思った」




    






七里の渡し(宮宿)」(広重画)



「七里の渡し(桑名宿)」(広重画)



立川談志の『桑名舟【YouTube】


   

熱田神宮

日本武尊の「草薙の剣」を神体とする神社

   

七里の渡し跡(宮宿) 《地図

新堀川と堀川の合流点で、昔は「神戸の浜」といった。

古くは壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が桑名から熱田に渡る時、その時間が長く、「間遠」といったことから「間遠(まどう)の渡し」と呼ばれていた。

   

七里の渡し跡(桑名)・蟠龍櫓 《地図

桑名城の櫓の一つで、航海安全の守護神としてここに置かれた。蟠龍とは天に昇る前の龍がうずくまった姿だそうだ。

鮫に食われず舟から降りた二人は東海道を桑名宿→四日市宿→日永の追分へと進み伊勢街道に入ったことだろう。

   

日永の追分(東海道(右)・伊勢街道(左)) 《地図

伊勢神宮の遥拝鳥居(安永3年(1774)建立)、道標(嘉永2年(1849)建立)が立つ。このあたりは四日市宿と石薬師宿の間の「間の宿」で、旅籠、茶店が多かった。

江戸からの二人連れは、大坂からの伊勢参りの『東の旅』の喜六と清八の二人連れと道連れになったりしたら愉快だろう。





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