「阿武松(おうのまつ)」  三遊亭円生(六代目)


 
★あらすじ★
 能登の国鳳至郡鵜川村七海(ふげしごおりうがわむらしつみ)から相撲取りを目指し江戸へ出てきた長吉京橋の観世新道武隈(たけくま)文右衛門の弟子になり小車という名前をもらう。
小車はよく働くが、大変な大飯食い。たまりかねた部屋のおかみさんが武隈に、あんな大飯食いにいられたら食いつぶされてしまうから、早く暇をだしたほうがいいと告げ口する。
「雌鳥すすめて雄鶏時刻(とき)」で武隈は小車を呼び、一分の金を渡し、故郷へ帰れと暇を出す。

小車は仕方なく京橋の部屋を出て、ぼんやりと中山道を板橋から志村、戸田の渡しまで来た。大食いのせいで関取になれず故郷へは面目なくて帰れるはずもなく、いっそここで身投げでもと思ったが、どうせ死ぬならもらった一分で好きな飯を腹一杯食ってからにしようと、とって返し板橋の平尾宿の橘屋善兵衛という旅籠へ泊まる。
一分の金を出し、何もいらないからお飯(まんま)だけは好きなだけ食わせてくれと頼む。お風呂を先にと勧められるが、「いや、明日川へ入るから」と断り、出てきたお膳に向い黙々と飯を食い始める。なにしろ今生最後の晩飯だからその食いっぷりのすごいこと。
女中からこの話を聞いた主の善兵衛が見物に来る。小車は飯を食いながらことの顛末を善兵衛に話す。これを聞いた大の相撲好きの善兵衛は気の毒がり自分の懇意の親方へ世話をしようと言い出す。月に五斗俵を二俵づつ食い扶持にあげるともいう。喜んだ小車、死なずにすむことになり、またうまそうに飯を食い続け、その晩はぐっすりだ。

翌朝、小車と善兵衛は板橋宿から巣鴨の庚申塚、本郷の追分を通り、根津の七軒町錣(しころ)山喜平次という善兵衛ひいきの関取の家へ着く。
善兵衛が小車を弟子にと頼むと、錣山は旦那さんの頼みならと小車の身体も改めずに引き受ける。さらに錣山が前相撲の時の小緑というしこ名までつけてくれた。

文化12年の12月、麹町10丁目、報恩寺の相撲の番付に初めて名前がのり、序の口すそから14枚目に小緑常吉
翌13年2月、芝西の久保八幡の番付には序二段目、すそから24枚目に躍進。その間が100日たたないうちに番付を60枚とび越したという、古今に珍しい出世。

文政5年、蔵前八幡の大相撲に入幕をはたし、小緑改め小柳長吉
初日、二日、三日と連勝。明日4日の取組みの中に、武隈と小柳と出る。
これを見て喜んだのが師匠の錣山。「明日はお前の旧師匠、武隈関との割りが出た。しっかり働け」
小柳「へい、明日の相撲にすべりましては、板橋の旦那さんに合わせる顔がござりませんで・・・。飯(まんま)の仇武隈文右衛門、明日は一丁、働きます」
翌日、武隈との立ち合いが長州公の目にとまる。阿武松緑之助と改名し、横綱を張るという出世力士のお噺でございます。


    


 
★見聞録
 阿武松はれっきとした六代目の横綱で、長州公の萩にある阿武松原という名所に因んでの名です。
この落語には「黄金餅」ほどではないにしても、中山道沿いの地名が多く登場します。長吉の足取りをたどってみると、一日目は京橋の観世新道(中央区銀座3丁目)→日本橋→本郷追分→巣鴨→板橋宿→志村→戸田の渡し→板橋平尾宿 二日目は平尾宿→巣鴨庚申塚→本郷追分→根津七軒町(台東区池之端2丁目と文京区根津の境あたり)となります。
一日目は25km位あるでしょうか、こんなに歩いた後の平尾宿での腹を空かせた小車の食べっぷりが目の前に浮かぶようです。まして翌日には川に身投げしようという覚悟の上ですから。円生は2升のおひつを三度取替えまだ継続中と演じています。
初めて番付にのって相撲を取った麹町10丁目の報恩寺が調べても分かりませんでした。



三遊亭圓楽(5代目)の『阿武松【YouTube】





大日本大相撲勇力関取鏡』(歌川国輝(二代))画
江戸時代初期から幕末にかけて活躍した力士97名の名前や
所属する藩、身長のほか、104人の人物の似顔絵が描かれた錦絵。


   中山道板橋宿の板橋(板橋区本町と仲宿の境)

日本橋から二里二十五町三十三間(10.642km)の中山道最初の宿場。
板橋宿は全長約1.7kmで、日本橋から方面から平尾宿、中宿、上宿に分かれていた。本陣は中宿にあった。
この橋から北側が上宿。
   旧中山道の清水坂
国道17号(現中山道)の志村坂上から下る坂で、隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と時代により名を変えてきた。
かつては日本橋からの最初の難関の急坂で、大きく曲がり、街道で唯一、富士山が右手に見えた名所でもあった。坂下には板橋と蕨をつなぐ合の宿があり、戸田の渡しが増水で渡れない時などは控えの場所として利用された。



「木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場」 渓斎英泉画

   「戸田の渡し」あたり(国道17号の荒川の戸田橋を渡った戸田市側から)
天正年間(1573〜91)から明治8年(1875)に戸田橋が完成するまで、渡し船で荒川を渡った。
   中山道戸田渡船場跡碑(国道17号の東側200m位の所。戸田市側)
すぐ隣に水神社がある。
   板橋平尾宿の脇本陣跡(板橋3丁目)
   板橋平尾宿

写真の「花の湯」の後ろあたりに脇本陣があった。
   巣鴨の庚申塚(豊島区巣鴨の都電庚申塚駅の近く)

正面の社が猿田彦大神庚申堂。
旧中山道は庚申塚商栄会通りから南の「とげぬき地蔵」参拝でにぎあう「おばあちゃんの原宿」地蔵通商店街(写真右方向)へと続く。
   芝の西久保八幡神社(港区虎ノ門5丁目)

阿武松が序二段の時に相撲を取った神社。
   蔵前神社(蔵前八幡)(台東区蔵前3-14)

入幕し、旧師匠の武隈と対戦した神社。
江戸時代には勧進相撲が開催され、天明2年(1782)2月場所7日目、63連勝中の谷風が新進の小野川に「渡し込み」で敗れた一番はこの境内で取られた。
右側の蔵前神社の石柱は日本相撲協会の寄贈。
   横綱力士碑(富岡八幡宮境内、江東区富岡1丁目)

歴代の横綱の名が刻まれている。大関力士碑もある。
   谷風、小野川に続き、「六代 阿武松緑之助」の名。

阿武松緑之助


   阿武の松原(菊が浜
から萩城跡(指月山)
   萩城外堀・北の総門 



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