「黄金餅」   

 
★あらすじ  下谷山崎町の裏長屋に住む坊主の西念は、頭陀袋をさげて市中を回り金をもらい貯めこんでいる。西念が患って寝込んでいる所へ、隣の部屋に住む金山寺味噌売りの金兵衛が見舞いに来る。ケチな西念は医者にもかからず、薬も飲んでいないという。

 西念があんころ餅が食べたいというので金兵衛が買ってきてやる。西念は人が見ている前では食べられないというので、金兵衛は自分の部屋に戻り壁の穴から覗くと、西念は餅の餡(あん)を出し、餅の中に胴巻きの中から取り出した一分金、二分銀を詰め込み飲み込んでいる。

 そのうちに餅が胸につかえ苦しがり始めた。金兵衛はあわてて助けようとしたが死んでしまう。大家に知らせに行くと、大家は西念から、「金さんの寺へ葬ってくれ」と頼まれている言う。長屋の連中と死体の入った樽を担ぎ、麻布絶江釜無村木蓮寺へ向う。

 夜中に木蓮寺に着き、くさやの干物で冷や酒を飲んでいる坊主にいいかげんな経をあげてもらう。天保銭六枚で焼き場の切手(許可証)をもらい、金兵衛ひとりで死体をかつぎ、桐ヶ谷の焼き場へ持っていく。

 仏の遺言だから腹の所だけは生焼けにしといてくれと頼み、新橋で夜明けまで時間をつぶした金兵衛は焼き場に戻り、焼いた死体を鯵切り包丁で裂き、金を懐にして立ち去ってしまう。

この金を元手に、金兵衛は目黒に餅屋を出してたいそう繁盛したという、黄金餅の由来の一席。



  
 一分金(天保)                                      


 
★見聞録
 死体の腹を包丁で裂いて手に入れた金で店を開くなど、落語らしからぬ筋ですが志ん生の軽い、さらっとした描写、語り口から陰惨さは感じません。むしろ、その金で餅屋を開き繁盛したと聞いて、ホットする気分にもなるから不思議です。それにしても商売はいろいろあるのに、餅屋を開くとはしたたかなものです。

 この噺の面白い所は、下谷山崎町(上野駅近く台東区北上野1丁目、東上野4丁目)から西念の死体を麻布絶江釜無村木蓮寺まで運ぶ道筋を言い立てるくだりです。
長屋を出てから、上野の山下、三枚橋三橋)、上野広小路、御成街道、五軒町、筋違御門、須田町、新石町、鍛冶町、今川橋、本白銀町、石町、日本橋、京橋、新橋、土橋、久保町、新し橋、愛宕下、天徳寺、西の久保、飯倉、飯倉片町、おかめ団子屋、永坂、十番、大黒坂、一本松、麻布絶江釜無村木蓮寺までの道筋を一気に言い立てます。

 木蓮寺に着いた時は、「みんなずいぶんくたびれた」、「あたしもくたびれた」という所は滑稽で、どっと笑いが起きました。

 麻布絶江釜無村木蓮寺というのは架空の地名と寺ですが、港区南麻布2丁目の曹渓寺の西側に沿って絶江坂があります。この坂は曹渓寺の開基の名僧、絶江和尚に因む名です。木蓮寺のいいかげんな破戒坊主とは雲泥の差です。

 金のためとはいえ金兵衛は、下谷山崎町→麻布木蓮寺→(西念の屍体を一人でかついで)→桐ヶ谷の焼き場→新橋→桐ヶ谷の焼き場とよく動いたものです。ちょっと距離があり過ぎますがまあいいでしょう。

 西念の貯め込んだ金を目当てに、日光街道千住宿の女郎のおくまが西念をだまのが『藁人形』です。

金兵衛が売っていた金山寺味噌とは、「なめ味噌の一種、大豆を炒って粗く砕き大麦と混ぜて蒸したのちに麹とし、塩を加え、ナス、ウリなどを入れたもので、甘みを加えることもある。和歌山県湯浅地方の名産(『湯浅醤油と金山寺味噌』)。中国(宗)の径山寺での製法が伝えられたものという」

立川談志の『黄金餅【YouTube】

   西念が住んでいた下谷山崎町(台東区北上野1丁目) 《地図

山崎町は明治5年に下谷万年町と改めた。かつてこのあたりは東京でも指折りのスラム街だった。『落語地名事典』

江戸時代の地図』(断腸亭料理日記より)
   絶江坂 左側が曹渓寺 《地図
   曹渓寺 

赤穂浪士でただ一人の生き残った、寺坂吉右衛門はこの寺で寺男を務めた。墓もある。
   永坂(坂下近くから) 《地図
坂上(麻布台3丁目)に「おかめ団子」の店があった。

「おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を下りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶江釜無村の木蓮寺へ来たときは・・・」というくだりがあります。
   大黒坂(港区元麻布1丁目)
坂の途中に大黒天を祀る大法寺があります。 《地図
   一本松(大黒坂の坂上、一本松坂の坂下)

源経基平将門を征討した帰路に、ここの松に衣装を掛けたという伝説の松の何代目でしょうか。


金山寺味噌の製造・販売の玉井醤本舗
熊野古道(紀伊路E)』





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