「佐野山」  桂文生

 
★あらすじ 寛政の大横綱谷風梶之助が活躍した頃、十両の筆頭に佐野山という相撲取りがいた。大の親孝行が評判で小兵ながら人気があった。母親が大病を患い看病疲れと医者代、薬代の支払いに追われ、ろくな物も食べず水ばかり飲んで土俵へ上がったため初日から9連敗の有様だ。

 相撲贔屓(びいき)の間では佐野山は今場所かぎりで引退だと噂されている。これを聞いた谷風は親方衆に千秋楽に佐野山と対戦させてくれと願い出る。

 飛ぶ鳥落とす勢いの谷風と、十両で全敗中の佐野山の一番が組まれ、驚いたのは江戸の相撲好きの連中、なんでこんな一番が組まれたのか憶測とうわさで持ちきりだ。

 谷風からの申し出で決まった一番だと分かると、これは遺恨相撲だなんて真しやかに喋べり出すやつも現れる。若い女ができて谷風の足が遠のいた柳橋の年増の女と、今は落ち目の佐野山がねんごろの仲になり、怒った谷風が土俵の上で佐野山を叩き殺すなんていう筋書きを勝手に作って盛り上がっている。

 佐野山にも贔屓筋はいる。もし佐野山が谷風の片方の回しでも取れば五両、もろ差しに組めれば十両の祝儀を出すと約束する。むろん谷風のまわしに手が触れるどころが、立ち合ってすぐにぶっ飛ばされて勝負はつくだろうから、祝儀の金を出す心配などさらさらないと誰もが思っている。

 さて、両国回向院での勧進相撲の千秋楽の取り組みも進み結びの一番だ。いつもなら「谷風、谷風・・・」の歓声ばかりなのにこの日ばかりは、判官びいきの江戸っ子のこと「佐野山、佐野山・・・」の掛け声一色の有様。

 いざ、しきりに入り顔を見合す両力士、谷風は佐野山を見てこれからも親孝行に励めよと声をかけ、にこりと顔をほころばす。一方の佐野山は谷風の了見が分かり、ありがたさで嬉し涙の一滴をこぼす。

 これを相撲好きな江戸の連中が見逃すはずはない。谷風は土俵の上で憎っくき佐野山を叩き殺せると思って笑い、佐野山はこれからは親孝行もできなくなり悲しくて涙を落としたと思い込む。

 さあ立会いだ、一瞬のうちに佐野山ははじき飛ばされると思いきや、なんと佐野山は谷風の懐(ふところ)へ飛び込んでいる。実際は谷風が両脇を広げ、かいな(腕)で佐野山を抱きかかえているのだが客にはそうは見えないところがさすが谷風のうまいところ。

 まわしに手がかかり5両、そしてもろ差しで十両の意外の展開に客も大騒ぎ。谷風は佐野山を抱えたまま、押されているようにずるずると後ずさりで土俵際までさがる。ここで足を出しては如何に谷風といえども八百長がバレてしまう。そこで佐野山を腹に乗せたまま右へ打っちゃる

 佐野山の体は大きく弧を描いて土俵の外へ投げ出される。これを見た客はやんやの大喝采。さすが大横綱、負けるはずがない。ところが軍配を見ると佐野山の方へ上がっている。さすが初代立行司の木村庄之助、打っちゃる寸前に谷風の右足が土俵の外へ出たのを見逃すはずはない。もちろん谷風がわざと先に足を出したのではあるが。

 土俵の上には大勢の見物人から祝儀の金品が雨あられと投込まれる。
このおかげで佐野山はこの後も親孝行に励むことができたという、「谷風の情け相撲」というお話。


     

谷風は佐野山と対戦したことはなく、こんな見え透いた八百長相撲なんて取らないでしょう。演者により、佐野山は幕内の幕尻や、幕下だったり、病を患ったのは父親だったりします。
 作り話とはいえ、この時代に回向院では勧進相撲が興行され、行司の木村庄之助(初代かどうかはわからないが)もいました。
 「おらが国さで見せたいものは昔谷風、今伊達模様」と歌われた二代目谷風は宮城県仙台の出身。落語『寛政力士伝
 桂文生も宮城県の生まれです。そのせいか独特の訛りみたいなのがある、ねちっこい語り口に特色があります。

ちょうど演じられたのが若貴(若の花、貴の花兄弟)の全盛の相撲人気も盛り上がっていた時で、二階の椅子席も取るのが大変だった頃で、今の相撲人気とは雲泥の差の頃です。


春風亭柳朝(五代目)の『佐野山【YouTube】

   勧進相撲が行われた両国回向院の境内

明和5年(1768)の興行が最初という。

両国回向院境内全図
(東都名所図会・広重画)
本堂の右側のよしず張りの巨大な建物が勧進相撲小屋「拡大図
   力塚(回向院境内)

昭和11年に歴代相撲年寄慰霊のため建立された。


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