「千早振る」

 
あらすじ 娘から百人一首在原業平の「千早ぶる神代もきかず龍田川からくれないに水くくるとは」の意味を教えてとせがまれた金さん。むろん知る由もなく、忙しいから後で教えるとごまかし、横町の自称物知りの隠居の所へ教えてもらいに行く。

 知らないとは死んでも言わない隠居は、「千早ふる神代もきかず」だろ、すると自ずから「龍田川からくれないに」となって、続いて「水くぐるとは」になるのは自然の流れだ。なんてのではいくら金さんでもだまされない。

 考えた隠居が言うには、龍田川は川ではなく、、相撲取りの名で、田舎から出てきて相撲一筋、一心不乱に稽古に励み、女断ちして大関まで出世した。ある春の日、贔屓(ひいき)の旦那に連れられて吉原に夜桜見物に出かけ、花魁道中で見た千早太夫に一目惚れした。

 旦那は太夫は売り物で金さえ払えば買えると言う。茶屋に上がって話を通すと「私は相撲取りは嫌でありんす」と見事振られてしまった。それならと妹の神代太夫に口をかけると、これまた「姉さんが嫌なものは、わちきも嫌でありんす」と肘鉄を食ってしまった。

 相撲取りにつくづく嫌気がさした龍田川は、そのまま廃業して故郷の田舎に帰って豆腐屋になってしまった。家業に励んで親孝行し早、五年が経った秋の夕暮時に、龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人店の前に立って、おからを恵んでくれという。

 気の毒に思っておからを差し出しその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。昔日に恥辱を与えた女を目の前にした龍田川は、「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのせいだ。おからはやれない」と言って、ドーンと突いた。やせ細った千早は吹っ飛び転がった。よろよろと立ち上がった千早は世をはかなんで井戸に身を投げてお陀仏となった。これが千早ふるの歌の真実なのだ。

 きょとんとしている金さんに隠居は得意げに語る。
始めに千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず龍田川」、おからをやらなかったから「からくれないに」、
金さん 「じゃ、水くぐるってえのは?」

隠居 「井戸へ落れば、水をくぐるじゃねえか」

金さん 「最後のとはてぇのは?」

隠居  「お前もしつこい奴だな。そのぐらい負けておけ」

金さん 「負けられません」

隠居 「後でよ〜く調べたら千早の本名だった」



     



     
    「立田山 龍田川」 (六十余州名所図会・広重)


柳家小さんの『千早振る【YouTube】



竜田川(竜田大橋から) 
竜田越奈良街道B』(2016年5月7日)


12月上旬の竜田川「ウイキペディアより」



歌留多取り(「江戸年中行事図聚」三谷一馬より)



 在原業平ゆかりの伝承地
  @業平橋(芦屋川)から北方向 《地図

伊勢物語』の八七段に、「昔、男、つのくにむばらのこほり、あしやのさとにしるよしゝて、いきてすみけり」とある。橋の手前の北側が「業平町」で、そのあたりに別荘があったようだ。

   

A親王寺 《地図

業平の父の阿保親王の別邸跡に建てられた親王の菩提寺。

@Aは『山陽道(西宮駅→神戸駅)

   

B在原寺跡(在原神社) 《地図

ここに楼門があった。

   

C井筒(在原寺跡境内)

謡曲井筒の舞台の井戸。

BCは『上街道・初瀬街道@

   C-2井筒(卯辰山三社境内)  「説明板

大和の在原寺から移された元の井筒という。

金沢市の坂E
   D業平姿見の井戸 
説明板」・《地図

業平の邸跡ともいう上街道沿いの在原寺から高安の女の所へ通った「業平道」。
左横に、蕪村の「蟲泣くや河内通ひの小提灯」の句碑が建つ。

中街道@
 業平姿見の井戸 《地図

太子道
   業平橋(富雄川) 『太子道』
 

高安地区の家並み 『太子道』

ここは大和の高安(斑鳩町)で、業平が河内高安(大阪府八尾市)の河内姫のもとへ通った際に立ち寄っていたので「高安」と呼ばれるようになったそうだ。

  業平姿見の井戸(広峰神社境内) 
地図》 『太子道』
   E在原寺 《地図

業平の菩提を弔うために建てられたと伝える。業平の立像を安置する。
   

F八橋かきつばた園(無量寿寺) 
地図

『伊勢物語』の「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」にちなむ庭園。

   G在原業平の墓(供養塔) 《地図
鎌倉時代末期に建立されたと考えられている。

EFGは『東海道(藤川宿→知立宿)
   

業平橋(大横川親水公園) 《地図

橋を渡った右側の南蔵院に業平塚があった。

   業平塚跡・南蔵院跡 

南蔵院境内の業平天神に(伝)業平塚があり、『江戸名所記』に古老の話として、「都にのぼらんとして船に乗り給ひしが、この辺りの浦にて船損じて死に給ひしを塚につきたり」とあるそうだ。この塚については異説もある。業平がこの地に来たというのも伝承に過ぎないだろう。
「しばられ地蔵」の大岡政談で有名な南蔵院はもとはここにあった。現在は葛飾区に移転。『岩槻慈恩寺道』に記載。
   「業平橋駅」はこんな陳腐な名前になってしまった。まさに「末法の世」というべきか。
   「言問橋」から隅田川


「名にしおはば  いざ言問はむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」(伊勢物語九段)
   

在原口バス停 《地図

ここを左折した在原集落の林の中に業平の墓と伝承される小さな宝篋印塔があるようだ。 業平が晩年に隠棲したという伝承の地。

西近江路D

   

不退寺(業平寺)《地図

承和14年(847)業平が建立。

    笠懸松(3代目)

在原業平が東下りの折に、笠を懸けた松
という。
東久留米市(東京)の笠松坂の坂上。
東久留米市の坂
 業平塚(平林寺境内・説明板

東下りの折、駒を止めて休んだという伝承地だが、野火の見張り台のようだ。
野火止用水を歩くA
   業平橋(旧古隅田川)

古隅田川(埼玉県)』
   都鳥の碑(左) 
説明板

春日部八幡神社参道入口

「古隅田川(埼玉県)」

 在原業平と親交があった惟喬親王の別荘地で、業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今和歌集)はここで詠まれた歌。

京街道A



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