「ちきり伊勢屋(上)」


 
あらすじ 麹町五丁目の今年二十五のちきり伊勢屋の主人伝次郎が、平河町易者白井左近にいくつもある縁談を占ってもらいに行く。天眼鏡でじっと見ていた左近先生、「失礼だが、お前さんの縁談は無駄になる。お前さんの天庭(てんてい・額)に黒気が表れておる。来年の二月十五日、正午の刻にお前さんは死になさる」という占い。

 ちきり伊勢屋を開いた伝次郎の父親の伝衛門は、阿漕で因業な商売で儲け、無慈悲に多くの人を苦しめ泣かせて今の身代を築き上げた。伊勢屋を恨んで自ら命を絶った人たちも少なくない。
左近 「親の因果が子に報いという事だ。お前さんは善人に生まれながらその身代を相続しても、先代に苦しめられたり泣かされたり、果ては命を絶った人たちの祟りで若死にする天命なのじゃ。天命は変えられないが、来世で幸せに暮らせるよう、今からでも遅くはないから多くの人たちにほどこしをしなさい」

 素直な伝次郎は、「かしこまりました。ありがとうございます」、必ず死ぬなんて言われても礼なんか言って店へ戻った。早速、伝次郎はほどこしを開始する。番頭を呼び、「入質の物すべて元利とも頂くかずにお戻しいたします」の立て看板を作らせ、店の前にでーんと立て掛けた。

 始めは通行人も見向きもせず、あんな強欲な質屋が悪い冗談を言っているぐらいにしか思われなかったが、一人が店へ入ってただで質物を受け取ると、すぐにこれが人の口から口へ伝わって、店の前には押すな押すなの長蛇の列。なかには十八年前の質物をいまだに忘れず、仇討ちみたいに受け取りに来る者、何だか分からないけど列に並ぶ者なども居れば、ちゃんと全額、半額払って質物を引き取って行く良心的?な客もいる。

 すぐに五戸前の質蔵はすべて空となり、ほどこしの第一段階は終了。むろん新しい質物などはもう預からない。大忙しで働いてくれた店の者たちには、いつもの粗末な食事に代わり、好きな物、今まで食べたことのないような物を勝手に選ばせて、好きなだけ食べてもらう大盤振る舞い。これもほどこしのおまけか。

 まだまだ、来年死ぬまでに使わねばならない金は山と残っている。伝次郎は困っている人の情報を集めて、店を出て外へ積極的にほどこしに出掛ける。東奔西走して、このほどこしも一段落だが、まだまだ金はある。

 伝次郎は生まれてからこのかた父親譲りで仕事一筋。近所の子供たちとも遊んだことはなく、年頃になっても飲む、打つ、買うの三道楽には見向きもしない。死ぬ前に冥途の土産に何か道楽でもと考えたが、酒なんかいくら飲んでもたかが知れてるし、博打でもしも大勝ちしたらそれを使わなきゃならないのも大変で、女と遊ぶことに決めて番頭に相談する。

番頭 「ええ、結構でございます。なまじ素人では返って面倒でございますから、気兼ねなく遊べる遊女屋なんかで・・・いっそ新宿へいらっしゃいな」

伝次郎 「お前、なかなかくわしいな」、ということで内藤新宿岡場所通いが始まった。ある日、帰りに寂しげな喰違い見付のところまで来ると、中年のと十五、六ぐらいのが泣きながら話をしている。すると女は腰ひもを解いて木の枝にかけ、首をくくろうとする。駆け寄って止めた伝次郎が仔細を聞くと、「実はこの娘(こ)がご主人様から預かった二百両を持って使いに行く途中で、落としたのか取られたのか分かりませんが無くしてしまいました。この娘にかかった濡れ衣を晴らすこともできずに、このようなことに・・・」

伝次郎 「お前さんたちは金がなくて死になさる。わたしは金があっても命がない。金ですむのなら、二百両あげますから、死ぬのはおよしなさい」

女 「それは、・・・まあ・・・そんな大金を見ず知らずの御方から・・・何と有難いことで・・・どちらのお方さまでございますか?おところとお名前を・・・」

伝次郎 「どうぞ、ご勘弁を・・・それじゃあ、名前だけ申しまあげましょう。わたしは伊勢屋伝次郎というもの。来年の二月十五日、正午の刻に死にますから、その日を命日と思って、お線香の一本でも手向けてくだされば結構ですから・・・」、伝次郎は母娘が止めるのを振り切って店へ駆け出して行った。

 新宿での遊びにも慣れて、飽きてもきた頃、やっぱり遊びの本場は吉原と聞いた伝次郎は吉原へと乗り換えた。遊びも大きくなり、花魁、芸妓をはべらせ、大勢の幇間(たいこもち)、芸人に取り囲まれ、湯水のように金を使って行く。

 暮れも押し詰まった頃、店では奉公人たちの退職金代わりに千両箱を並べて小判のつかみ取りを開催。まだ手が小さくて少ししかつかめない定吉には、「お前は親孝行だから百両やる。暇を取ったら商いでも始めなさい」、それを見ていた飯炊きの権助、泣き出しそうな顔で、「おやじと兄貴が道楽して田地田畑売り払って、身代ぶっつぶしてしめえました」

伝次郎 「そうか、田地田畑取り戻すには、よっぽどの金がいるだろ」

権助 「ぶったまげてはいけねえよ。・・・七両二分だ」に、ぶったまげた伝次郎、「みんな、すぐに暇を取るのも、ここで正月を越して二月までいるのも勝手だ・・・」と、また吉原へ遊びに出掛けた。


 「ちきり」は、織機に取り付けられた経糸を巻く工具のこと。これに似た形のもので二つの石や木を接続する填め木もやはりチキリと言う。糸巻から転じた言葉で二つの物を結ぶことは、やがて男女の仲を結んだり、愛を交わしたりする契りに掛けて使われた。(「家紋の由来」より)
伝次郎と女房になる娘のとの仲、伝次郎と父親を結ぶ因果因縁や、伝次郎の現世と来世を結ぶ意味合いもあるか。「ちきり伊勢屋」の家紋は千切紋のどれか?


   
』より                                    
                                        



平河天満宮



貝坂 平河町2-3と2-4の間を北に上る。《地図
貝塚があったというのが現在の定説。
もともと半蔵門外一帯を古い地名では貝塚と呼んでいたことがある。
落語『文七元結』の最後で、文七とお久が元結屋を開いたところ。
白井左近もこのあたりに住んでいたのだろう。



四ッ谷内藤新宿(広重画)


子供合埋(ごうまい)碑 「説明板」 (成覚寺投げ込み)寺境内)
子供とは内藤新宿の岡場所の飯盛女(遊女・女郎)のこと。



紀尾井坂  麹町5丁目と紀尾井町の間を南西に上る。《地図
州、張、伊の屋敷があった。明治11年に「紀尾井坂の変」のあった所。
坂上が喰違い見付跡で、「心中の本場が向島、身投げをするのが吾妻橋、
犬に食いつかれんのが谷中天王寺、首くくりが赤坂の喰違い」と、相場が決まっていた。



喰違い見付・見付門・紀尾井坂(「絵本江戸土産」(広重画))






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