「江島屋騒動」


 
あらすじ 深川佐賀町の医者の倉岡元庵は医者の不養生、ちょっとした風邪がもとであっけなく死んでしまった。残された女房お松は、深川小町と呼ばれた、今年十七になる娘のお里を連れて自分の郷里、下総の大貫村に帰った。

 鄙(ひな)にはまれな美人のお里を村の若者たちは放っておかずに大騒ぎとなる。名主の源左衛門のせがれ、源太郎は盆踊りの夜にお里を見初め、嫁にもらってくれなければ死ぬと言い出した。

 ある日、仲立ち役を頼まれた権次がやって来て、名主家は支度金五十両を出し、お松の面倒も見るということで縁談がまとまった。

 早速、母と娘はその金を持って江戸へ出て、ちょうど芝神明宮お祭りの日に、芝日陰町江島屋という大きな古着屋四十五両という大金をはたき、婚礼衣装を整えた。

 いよいよ婚礼の当日の天保三年十月四日。仲人の権次が日暮れに迎えに来て、お里は馬に乗り掛けで名主宅まで花嫁道中だ。だが途中でにわかに降りだした雨で、馬上のお里はずぶ濡れになってしまう。

 婚礼の席は盛り上がってお里が客にかいがいしく給仕しているうちに、婚礼衣装がふいに腰から下が取れて落っこちてしまった。婚礼衣装は縫ってなく糊付けしただけのイカモノ、まやかし物だったのだ。酔った客たちは遠慮会釈なく花嫁の不様な腰巻姿を卑猥に嘲笑して面白がっている。

 お里はその場に泣き崩れ、名主の源左衛門は恥をかかされたとカンカンで、一方的に婚約を破棄し、支度金の五十両までも耳を揃えて返せという薄情、鬼親父ぶりだ。せがれの源太郎はなにも言えない情けないぼんくら息子だ。

 お里さんもこんなところへは嫁入りしなくてよかったのだが、そこはうら若い娘心、世をはかなんだお里は、花嫁衣装の半袖をちぎって木に結び、利根川の土手から身を投げてしまった。流れた死骸は未だに上がらない。

 一方の江島屋はあくどい商売を続けて大儲けしている。ある日、商用で下総の佐原まで行った帰りの番頭の金兵衛は佐原から成田街道へ出て、船橋から江戸に向かうはずだったが、大きく道からそれてしまい、迷って夜になり、雪まで降って来た。

 田んぼの中の灯を頼りに一軒家にたどりついて宿を頼むと地獄に仏で、「入りなさい」。がたついた戸を開けて入ると、そこには七十前後の黒髪まじりの白髪をおどろに振り乱した、やせ細った老婆が一人っきり。この寒い夜に破れたボロ一枚しか着てないからあばら骨まで見え、目はギョロギョロしているがよく見えないらしい。その形相たるや安達ケ原の鬼婆そのものだ。

 恐さと寒さでぞっとする金兵衛に、老婆は疲れているだろうから次の間でお休みという。金兵衛は疲れでうとうとしたが、しばらくして寒さと空腹さと、きな臭い匂いで目がさめた。障子の破れからのぞくと、婆さんが着物の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、灰の中に何か書いて火箸で突き、柱に貼った紙に長い釘を打っている。

 老婆は金兵衛の気配に気づいて囲炉裏端へ呼んで語り始めた。江戸日陰町の江島屋で花嫁衣装のまやかし物を買わされたため、娘は自害に追い込まれ、自分も目がよく見えなくなった。娘の形見の片袖をちぎって、囲炉裏にくべて灰の中に「目」の字を書いて、それを突き、花嫁衣裳の代金の受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶす、店の者みんな呪い殺すと、鬼気迫る形相で金兵衛をにらみつけた。

 驚きと恐ろしさで腰が抜けそうになりながらも、金兵衛は老婆が夢中で五寸釘を打っている隙にあばら家から逃げ出し、なんとか街道へ出て江戸へ帰って来た。

 店に帰ってみるとおかみさんが階段から落ちてそのまま死んでしまい、その日に小僧が井戸へ落ちて死んだという。そのあとも異様のことが続いて店は商売どころではないという。

 ある夜、金兵衛が店の用で蔵に入ると、うず高く積まれた女物の着物の前に若い島田に結った娘が恨めしそうにス~ッと立っている。全身ぐっしょりと濡れ、長く伸びたざんばら髪からぽたぽたと雫が垂れている。そして腰から下がない。

 金兵衛、「うわ~っ」と蔵から飛び出して、主人の治右衛門のところへ行って、あの老婆のことを身ぶり手ぶりで話し始める。

金兵衛 「・・・老婆が片袖をこうして囲炉裏にくべ、灰の中に目という字を書きまして、火箸で”おのれ!、江島屋!”と、こう突いて・・・」、治右衛門が「痛い!痛い、やめてくれ!」と、目を押さえてうずくまる。それっきり両目は見えなくなってしまった。

 庭でガサッと音がした。見ると植え込みの間から、あの婆さんが不気味に笑いながら縁側へヒョイッ。凶事が続き、呪われた江島屋がつぶれるという一席。



安達ケ原の鬼婆(「福島の妖怪」より)

 日陰町は港区新橋2~6丁目の第一京浜国道(東海道)の西側の通りの俗称。江戸時代の正しい町名は、北から芝口二丁目・芝口三丁目・源助町・露月町・柴井町で、古着屋が多かった。『芝愛宕下絵図』の右側の源助町の左に「日カゲ丁通り」がある。



永代橋を渡った東詰めの北側が佐賀町で、
江戸時代の初めには深川猟師町の一部だった。



        

637(2018・1)




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