「九尾の狐」
★あらすじ 白面金毛九尾の狐は、中国殷王朝では美女、妲己に化けて国を傾け、その後の諸王朝でも帝王をたぶらかし、唐より帰朝する吉備真備の船に若藻という少女に化けて乗り込み日本に渡って来た。それから四百年近くの歳月が流れる。
もとは北面の武士だった坂部庄司行綱は、帝の命令で狐を射ろうとして弓弦が切れて射ち損なうという失態を犯して罷免され、今は病弱な妻と二人暮らし。妻の回復祈願に清水観音参詣の帰りに可愛い女の子を拾う。子に恵まれない行綱夫婦はその子に藻女(みくずめ)と名づけて大事にいつくしんで育てて行く。
やがて藻女は和歌や舞いの才能を認められて鳥羽院の御代に女官となって参内するようになる。美貌で才媛な藻女は鳥羽院の寵愛を受け、玉藻の前という名をもらう。
そのうちに鳥羽院が原因不明の病にかかる。朝廷の医師らにも手の施しようもなく、高名な僧侶が加持祈祷をすれども一向に回復の兆しはない。
日頃から易占によって、玉藻の前の様子を怪しいと睨んでいた陰陽頭の安倍泰親は調伏の法で真言を唱えると玉藻の前はついに九尾の狐の正体を現わして、東の方へ飛び去った。
玉藻の前の呪縛から解き放たれた鳥羽院は三浦介義明、上総介広常、千葉介常胤に九尾の狐退治を命じる。江戸市中に九尾の狐が出るとの噂を聞いた三人は、市中をくまなく捜し回る。
浅草観音に九尾の狐退治の祈願をした三浦介義明は、馬道の床屋でぼうぼうに伸びた髭をあたってもらおうと入ると、中の客が、「・・・三河屋のあの女は海千山千、陸にも千年、三千年の年数を経た古狐だ・・・」、これを耳にはさんだ義明は髭なんかそっちのけで、
義明 「これ、町人、その古狐という女は何者じゃ、どこにおるのじゃ」
町人 「へい、吉原の三河屋の女でさぁ」
義明 「どのような風体で、どんな面相をしている?」
町人 「顔は真っ白で、綺麗な着物を着て狐のようにおつにすましちゃいやすが、金で縛られた駕籠の鳥、檻の中の狐でさぁ」、さては九尾の狐かと身を乗り出して、
義明 「その女の名は玉藻と申すであろう」
町人 「いや、喜瀬川っていう花魁で」
義明 「そうか、むろん名は変えておるでろう。それでは尻尾はありはしないか?」
町人 「へえ、普段は見たことありませんが、物日(紋日)前には尻尾を出すだろうという評判でございます」
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*九尾の狐のその後:那須野に逃げた九尾の狐は、ついには三浦義明らの討伐軍に討たれてしまう。九尾の狐は巨大な毒石に変化(へんげ)し、近づく人間や動物等の命を奪った。そのため村人は後にこの毒石を那須の『殺生石』と名づけて恐れていた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたといわれている。
南北朝時代に示現寺を再興した玄翁(源翁)和尚が玄能で殺生石を砕いた。砕かれた殺生石は各地へと飛散したと伝わる。そのうちの一つが美作三浦家が城主の勝山の化生寺にある。那須野からここまではえらい距離だが、九尾の狐を退治した三浦義明とつながる伝承だろう。 |
三浦介義明が放った矢で首筋を貫ぬかれた九尾の狐
『那須野原殺生石之図』』(『新形三十六怪撰』)
殺生石塚 「由来碑」 《地図》
那須野原で玄翁和尚に砕かれて、各地に飛来した殺生石の一つという。
ただし殺生石はこの下に埋められていて、これはその上に置いた標本石だと。
ここは「那須の殺生石」を砕いた玄翁和尚が開山の化生寺境内。
『出雲街道⑧』
玉雲宮(たまもりぐう・化生寺境内)
九尾の狐が化身した「玉藻の前」を祀る大権現と稲荷社
九尾の狐
源翁和尚の墓(安穏寺) 『結城市の坂』
那須の殺生石を杖で砕いた玄翁和尚。死んだのは陸奥国(福島県)の示現寺。
『源翁和尚肖像画』
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