「西行」


 
あらすじ 西行がまだ佐藤兵衛尉憲清という北面の武士であった時、染殿の内侍が南禅寺に参詣した折りに、菜の花畑に蝶が舞っているのを見て、萩大納言が「蝶(丁)なれば二つか四つも舞うべきを 一つ舞うとは これは半なり」と詠んで短冊を内侍に渡した。

 萩大納言は以前に内侍に袖にされた男。その遺恨をはらすべく大勢の目の前で内侍に恥をかかせようと言う魂胆だ。内侍は丁半博打なんて知るはずもなく、赤い顔をしてうつむいていると、憲清が「一羽にて千鳥といへる名もあれば 一羽舞うとも 蝶は蝶なり」と返歌で助け舟を出した。これがきっかけで、憲清は絶世の美女、染殿の内侍に恋患いだが、身分の違いをどうすることも出来ない。

 染殿の内侍としても美男武者の憲清との火遊び、アバンチュールを楽しみたい。ある時、憲清に「この世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世過ぎて後、天に花咲き、地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」という隠し文が届いた。

 四日目の夜中に西にある阿弥陀堂で待っているようにというナゾだ。憲清は嬉しくて夜も眠れず、当日は早くから阿弥陀堂へ行って染殿を待つが、うかつにも寝不足からか居眠りをしてしまった。

 だいぶ遅れてやって来た内侍は鼻から提灯を出して眠りこけている憲清を見て、「われならば鶏(とり)鳴くまでも待つものを 思はねばこそ まどろみにけり」と、お冠で帰ろうとする。憲清は袖をとらえて、「宵は待ち夜中は恨み暁の夢にや見んとしばしまどろむ」と返歌した。

 染ちゃんの機嫌はすっかり直って、東の空が白むまで逢瀬を楽しんだ。帰り際に憲清が染ちゃんの袖をつかんで、「またの逢瀬は」と問うと、「憲清、阿漕(あこぎ)であろう」と袖を振り払って帰ってしまった。

 憲清には「伊勢の海 阿漕が浦に引く網も たび重なれば あらわれにけり」という歌を踏まえてある言葉だということが分からなかったのだ。憲清は残念無念と、武門を捨て名を西行と改め歌修行に諸国を旅することになる。

 西行が熱田の海辺の草むらで糞を垂れていると、糞がガサガサと這った。驚いて、「西行も幾瀬の旅はしたなれど 糞の這うのはこれが見始め」と詠んだ。見ると糞を背中の甲羅に乗っけた亀が這って行く。亀は首を西行のほうに向けて、「眠いとて道端などで昼寝せば 駄賃取らずに臭い荷を負う」

 摂津の鼓ヶ滝にやって来た西行、その落ちる様を、「伝え聞く鼓ヶ滝に来て見れば 沢辺に咲きし たんぽぽの花」と詠んで、我ながらいい歌だと自我自賛でご満悦。

 そこへ通り掛かった小さな女の子を連れた老夫婦がその歌を見せてくれという。こんな山奥の山賊(やまがつ)のような爺さん婆さんに歌など分かるかと思ったが、歌を見せると、
爺さん 「鼓というのやから伝え聞きより、音に聞くとした方がええのやないか」、なるほどごもっとも、 びっくりしている西行に、
婆さん「鼓ヶ滝に来て見れば、やなしに、鼓の縁語で、打ち見ればとした方が揃うのやないか」で、西行は開いた口が塞がらず冷や汗がタタタラ。

 最後のとどめは孫娘ような女ん子が、「お坊ちゃま、あたいも直してあげまひょ。沢辺を鼓の縁語で川(皮)辺とした方がええのと違(ちゃ)いますか」、西行は、へへぇ~と平伏するのみ。ひょいと見ると三人の姿は消えていた。和歌三神が自分のおごりを戒めて来られたのであろうと、さらに歌の修行に励むことになるであろうか?

 西行は、音に聞く鼓ヶ滝に打ち見れば 川辺に咲きし たんぽぽの花、の歌の出来がいいので、百人一首に入れてもらおうと都に戻って定家卿に差し出すと、これは四人の合作の歌だから駄目よと、つれなく却下。

 がっかりしてまた旅に出たに西行さん、なんとか伏見まで来たが自分に歌の才の無さに落胆し、世をはかなんで宇治川へ身を投げて死のうとすると、川面に十五夜の月が映っている。「嘆けとて月やは物を思わする かこち顔なるわか涙かな」、でけたでけたと、また都へ駆け戻っと定家卿に見せると、合格、入選でこの歌が百人一首に入った。自殺なんてころっと忘れてまた旅の人となった。

 ある日、馬方が「ご出家さん、馬に乗ってくだせい」と、寄って来た。
西行 「おお、少しくたびれたゆえ乗せてもらおうか」と、駄賃を決めて馬に乗ろうとすると、馬が駄々をこねているように嫌がっている。

馬方 「こら、われのような阿漕な馬っこはいねえぞ」

西行 「阿漕とは何じゃ?」

馬方 「さっきの宿場で豆食わせたばかりなのに、また豆食いたがってブーブー言いやがるから、阿漕と言ったんでさ」

西行 「ははあ、二度目の豆を阿漕と言うのか」


   
        

 西行ゆかりの地


西行水・泡子塚 「説明板
もとは北面の武士でで、イケメンで歌道の達人はどこへ行ってもてたろう。
落とし胤はあちこちにちらばっているか。
中山道(柏原宿→高宮宿)』



(伝)西行屋敷跡あたり  「説明板」  《地図
小石仏の上の金網の中(瀬田小学校の敷地内)に
「伝西行屋敷跡」の石柱が立っているようだ。
東海道(石部宿→草津宿)』



西光院
西行が住んだと伝える寺で、今も何代目かの西行桜がそびえる。
京都散歩(旧嵯峨街道・物集女街道)』



西行堂川(西行堂橋から) 《地図
西行が春日寺(かすがんじ)の僧だった伯父を訪ねたが、すでに亡くなっていた。
西行は霊を弔い、供養のため木像を彫り、小堂(西行堂)を建てて安置したという伝承があるようだ。
稲置街道(犬山街道)②



鴫立庵(しぎたつあん) 《地図》 「説明板
こころなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」にちなむ草庵。
奥州への最初の旅の康治2年(1143)の作という。
京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場で、毎月句会が開かれるそうだ。
東海道(藤沢宿~大磯宿)』



西行戻り松 「説明板」・『江島道
埼玉県秩父市の「西行戻しの坂」と同じ伝承だ。
そこでは、「冬ほきて 夏枯れ草を 刈に行く」となっている。



堀兼の井
「汲てしる人もありなんおのずから 堀兼の井の底の心を」 西行
鎌倉街道堀兼道①)』



西行戻しの坂(坂上方向) 《地図
西行の歌修行とゆかりのある坂。由来は『秩父の坂➀』に記載



西行戻し石(右) 「説明板」 ・ 『日光街道(鉢石宿→日光東照宮)』
左の木の前の石は西行の歌碑。「くろ(黒)髪山」=男体山=二荒山



西行の道から崇徳上皇の「煙の宮」方向。
説明板➀」・「説明板②」・「説明板③
四国遍路道(香川県⑧)』



西行笠懸桜と昼寝石(曼荼羅寺境内)
西行が都に帰る際、同行者が形見にと桜の木に笠を掛けたまま出発したのを見て
「笠はありその身はいかになりぬらんあはれはかなきあめが下かな」と詠んだという。
西行は手前の平たい石の上で、よく昼寝をしていたとか。


西行法師腰掛石
四国遍路道(香川県-2)



西行庵跡
高野山に向かう西行が滞在した所という。堂は取り壊されている。
高野街道②



八上王子跡・八上神社


西行歌碑
西行が熊野詣の途上ここの桜を見て社殿に書き付けた歌という。
熊野古道中辺路①)』



さる稚児桜(成就寺) 「説明板
伊勢街道③(阿漕駅→松坂駅)』



西行歌碑(伊良湖港前) 「説明板」 『田原街道④・伊勢街道①
「浪もなし いらごが崎にこぎいでて われからつける わかめかれあま」
(海士たちよ割殻虫がついた若布(わかめ)を刈りなさい)

文治2年(1186)8月のはじめ、69才の西行は俊乗坊重源の依頼により、
東大寺再建の砂金勧進のため藤原秀衡を訪ねるべく
伊勢の二見ケ浦から伊良湖岬に渡り、
2度目の「小夜の中山」越えをし奥州へと旅立った。



西行歌碑 「説明板」  『東海道(藤枝宿→掛川宿』)
「年たけて また越ゆべしと おもひきや いのちなりけり さよの中山



西行見返りの松(何代目?)
これも文治2年の旅の途中の逸話。
日光御成道(幸手宿→岩槻宿)』





義経堂から北上川、束稲山(たばしねやま) 《地図
全盛期の平泉を訪れた西行は、
「ききもせず 束稲山の 桜花 吉野のほかに かかるべしとは」と詠んだ。
奥州街道平泉→水沢宿)』



西行硯水公園 《地図》 「説明板」 『中山道(大井宿→細久手宿』
この地で3年間暮らした西行が、この泉の水で墨をすったという。



西行坂 
ここから西へ十三峠が始まる。



西行塚 「説明板①」・「説明板②
西行がこの地で入寂したという伝説による供養の五輪塔。
定説では西行は文治6年(1190)に河内の弘川寺で死んだことになっている。








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