「大山詣り」

 
あらすじ 長屋の連中が大山詣りをすることになった。先達吉兵衛さんは酒癖が悪い熊五郎が行くといつも喧嘩になるので、今回は長屋の用心のため残ってくれと頼むが、一人だけ置いてきぼりを食うのはいやな熊さんは、絶対に喧嘩はしないから一緒に行かせてくれという。

 なだめ透かして話をしているうちに熊さんは喧嘩腰になってきた。仕方なく吉兵衛さんは喧嘩をして暴れたら丸坊主にするという決め式をして熊さんを大山詣りのの仲間に入れた。

 両国の垢離場で水垢離を取り、吉兵衛さんを先頭に大きな納め太刀をかついで、いざ大山へと出発だ。好天に恵まれ行きは良い良いで何事もなく、無事に大山に上って下り、東海道の藤沢宿に出た。今年は喧嘩騒ぎもなく、江戸に帰れると思った矢先の神奈川宿なじみの宿で、気が緩んで酔った熊さんは暴れて大立ち回りで、殴られ蹴られた被害者が続出だ。

 吉兵衛さんは江戸も近いことだし、穏便に収めようとするが、殴られた連中はとても収まりがつかない。酔い疲れ、暴れ疲れで二階で大いびきをかいて寝込んでしまった熊さんを寄ってたかってクリクリ坊主にしてしまった。

 翌朝、連中はまだ寝ている熊さんを宿に残して江戸に向かった。知らぬが仏の熊さん、起しにきた女中たちが頭を見て、坊さん坊さんと笑っている。頭をさわって愕然、「やりぁがったな」と、すぐに通しの三枚駕籠を仕立て一目散に江戸へ向かった。途中、のんびり道中の長屋の連中を追い抜き、一人で血相を変えて長屋へ駆け込んだ。

 長屋のかみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で、「お山の帰りに寄り道して金沢八景を見物して、舟に乗ったが嵐になって舟は転覆、自分一人だけ浜に打ち上げられて助かった。村人の話では他の連中はみな溺れ死んだという。一刻も早く知らせようと通し駕籠をぶっ飛ばして帰って来た」と、作り話をする。

 かみさん連中は、すっかり信じ込んでワッと泣きだすが、吉兵衛さんのかみさんだけは信じない。「お前の仇名は「ホラ熊」・「千三つの熊」で嘘つき名人の言うことなんか信じちゃあいけない」と冷静だ。熊さん、そこまで言うならと頭に被っていた手拭を取った。見るとつるんつるんの坊主頭だ。

熊さん 「これが証拠、死んだ連中へのせめてもの供養のため頭を丸め坊主になったのだ」と、しみじみと言うと、さすがの吉兵衛さんのかみさんも、「あんなに見栄っ張りの熊さんが丸坊主になった。今の話は本当のことだ」と、ワァワァと泣き崩れ、それにつられて長屋のかみさんたちが大声で泣き始めた。

 計略は大成功でしめたと熊さん、「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」と、丸め込み、とうとうかみさんたちを一人残らずクリクリ坊主にして大満足だ。

 さて、のんびりと旅の思い出話に花を咲かせながら帰ってきた男連中、長屋に入ると念仏の大合唱、おまけに冬瓜舟が着いたような、比丘尼たちの頭がずらり。よく見ると自分たちの女房が尼さんになって熊さんを取り囲んで念仏を唱えている。熊さんにしてやられたと知った連中は怒り出すが、

吉兵衛さん 「はっはっは、これは目出度い、お山は晴天、家に帰ればみんな無事で、お毛が(怪我)なかった」


  
厚木の渡し跡(相模川)から大山


古今亭志ん生の『大山詣り【YouTube】



  
納め太刀(「江戸年中行事図聚」三谷一馬より)

 

赤坂御門跡(赤坂見附跡) 

ここが東海道と甲州街道の間の脇往還の大山街道の起点、各地からいくつもある大山詣りの「大山道」のメインルートだ。帰路は藤沢・江の島・鎌倉などでの遊興、観光も楽しまれた。

大山街道(赤坂御門跡→二子の渡し跡)』

   

ありし日の「二子の渡し」(多摩川)

長屋の連中もお馬ちゃんに見送られて渡ったか。

   

丸山城址公園から大山 《地図
平安時代の終わりから鎌倉時代にかけてこのあたりを支配していた糟屋有季の居館跡と伝える。その後の発掘調査で、太田道灌が主君の扇谷上杉定正に殺された「上杉館」(糟屋館)という見方も有力となった。
大山街道(愛甲石田駅→こま参道入口)』

   

こま参道

大山の土産物、「大山こま」のタイルが埋め込まれている。

大山街道(こま参道→大山山頂)』

   

大山寺 《地図

天平勝宝7年(755)、奈良東大寺の別当良弁僧正の開山。本尊は願行上人が文永11年(1274)に鋳造した鉄の不動明王。
ここから上は女人禁制で、まさに「不動から上は金玉ばかりなり」となった。

   大山阿夫利神社下社
   まだまだ険しい道が続く。もとは修験の道なのだ。
   大山山頂(1252m) 《地図

阿夫利神社本社(奥の院)
大山詣りを終えた連中が帰りにたどった道筋は、「大山街道(田村道)」→
藤沢宿(東海道)→江島道→金沢八景→東海道→神奈川宿→六郷の渡し
→江戸市中ということだろう。 
   

永勝寺の飯盛女の墓

藤沢宿で旅籠を営んでいた小松屋源蔵が建てた39基の墓。

大山詣りの後の楽しみは、「こはい者なし藤沢へ出ると買ひ」となったが、裏には哀れで悲しい飯盛女たちの歴史がある。

東海道(藤沢宿)

   金沢八景瀬戸の秋月』の地

琵琶島神社参道になっている。

鎌倉街道(下の道B)』


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