「お若伊之助」


 
あらすじ 日本橋石町の生薬屋の栄屋の一人娘のお若は、今年十八で今小町と呼ばれる評判娘。父親はとうに他界し、母親がお若を育て店の切り盛りもしている。

 ある時、お若は流行っている一中節を習いたいと言い出した。お若一人で外へ稽古に出すのも心配だし、母親も店が忙しくてその暇もない。

 そこで出入りの鳶のに組の頭の初五郎に相談する。初五郎は知り合いで面倒も見て来たもとは武士で菅野伊之助という師匠を勧める。年は二十五で真面目で堅く、頭(かしら)の保証、折り紙付きというので母親は伊之助に店に来てもらってお若に一中節の稽古をつけてもらうようになった。

 ところがこの伊之助が男も惚れ込むようないい男、十八のいい女と二十五のいい男が毎日、膝付き合わせていれば、猫に鰹節、噺家にがま口で、間違いが起こらない方が間違いというもの。いつしか二人は深い仲になった。

 女の勘で気づいた母親はすぐに初五郎を呼ぶ。「あんなに伊之助に太鼓判を押していたのに、どうしてこんなことに・・・」と詰め寄る母親に、
初五郎 「あの野郎、人の顔に泥塗りやがって、片腕の一本でも叩き折って・・・」と今にも飛び出しかねないのを止めて、

母親 「・・・この二十五両の手切れ金で、今後一切お若には近づかないと約束させて始末をつけておくれ」と言い渡す。伊之助は初五郎にこんこんと言い含められ、二十五両の金を受け取って一件落着。

 一方、お若は根岸の里御行の松の近くで町道場を開いている叔父の長尾一角の家に預けられた。一人で離れで暮らしているお若を気遣って退屈を紛らわそうと弟子たちが来て話すのは兵法だとか、武士道とか色気も面白くも何んともない話ばかり。募るのは伊之助への思いばかり。

 ある時、庭をぼんやり眺めていると生垣の向こうに伊之助が立っている。喜んだお若は手を取って部屋の中に入れる。そして毎晩の逢瀬が始まった。そのうちにお若のお腹がポテレンとなった。

 いくら武骨で朴念仁の一角先生でもこれに気づかぬはずはない。すぐに初五郎を呼んで問いただす。初五郎はかんかんに怒って「二度も俺を裏切りやがって、どうするか見ていろ」と血相変えて浅草の伊之助の家に駆け込んだ。

 話を聞いた伊之助、「そりゃあ、何かの間違いでは。昨晩は頭と吉原で一緒だったじゃありませんか・・・」という事で初五郎は納得。再び根岸に急行する。

 話を聞いた一角先生、「なるほど。・・・しかし夜中から朝まで二人はずっと一緒だったわけではあるまい。頭と離れていう間にこちらに来ることも出来よう・・・」、初五郎はまた浅草へ取って返す。

伊之助 「昨日はいろいろと話すことがあって朝までずっと寝ないで喋っていたじゃありませんか・・・」で、初五郎はまた根岸まで走るハメに。

一角 「それは奇異なことじゃ。・・・今晩二人で見届けよう」と、二人で酒を飲みながら待つことにする。根岸と浅草の間をピストン二往復した初五郎はすぐに酔ってぐっすり寝てしまった。

 夜も更けて八つ刻寛永寺の鐘が聞こえる頃、庭に人影が立ち、離れの障子が開いて人がお若の部屋に入って行くのが見えた。一角先生、初五郎を揺り起こし、障子の隅から中を覗かせると、
初五郎 「間違えねえ、あいつは確かに伊之助だ。とすると浅草の家にいたのは一体(いってえ)誰なんだ?」

 これを聞いた一角先生、「確かに伊之助は浅草にいたのじゃな」と、短筒で伊之助に狙いをつけ、ズドーンと一発。見事に的中して死骸を改めるとこれが伊之助ではなく古狸。

 伊之助を慕うお若につけ込んで、毎夜、お若をたぶらかしに来ていたのだ。しばらくしてお若は双子の狸を生んだがすでに絶命していた。これを御行の松のほとりに葬ったのが因果塚である。


  
        



古今亭志ん朝の『お若伊之助【YouTube】



時雨岡不動堂・御行の松(三代目・左) 《地図
初代の切株
因果塚なるものは見当たらない。

「青々と 冬を根岸の 一つ松」(子規)


『江戸名所図会』の御行の松は大木だ。
「霜ののちあらはれにけり 時雨をば忍の岡の松もかひなし」と
室町時代の紀行文『廻国雑記』(道興准后)にも記されている。
上野からここを通って音無川沿いに三ノ輪に至る道筋は古くは鎌倉街道だった。
「時雨の岡」と呼ばれたのは、上野の山下で気象が変わりやすい所だったからという。

根岸御行の松」(「絵本江戸土産」広重画)



呉竹橋跡(音無川跡)あたりの旧家



根岸の里(『江戸名所図会』)



根岸の里(「絵本江戸土産」広重画)





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