「真田小僧」  三遊亭円生(六代目)


 
★あらすじ★ 子どもが父親にまとわりついて小遣いをねだるがもらえない。それじゃ、お母っさんにもらうという。この間、留守の時に来たおじさんのことを近所中に話すといえば必ずくれるという。
これを聞いた父親も不安になって、話の続きを聞きたがる。
子どもは寄席で聞く時も木戸賃は前払いだといって金をせびるので、仕方なく5円を渡す。お母っさんはそのおじさんの手を取って、嬉しそうに「うちのがいなくてちょうどよかった」なんて言って座敷にあげたという。
それからどうしたと聞くと、もう10円せびられる。お母っさんが外へ遊びに行くようにとお金をくれたので、後は分からないという。父親がなんで肝心なところで出て行ったのだと叱る。子どもは、気になったから戻ってきて障子の隙間から覗いたという。「どうだった」と父親は気が気でない。
子どもはここが大事な切れ場だからもう10円くれという。仕方なく10円を渡すと、子ども「よく見たらそのおじさんは、いつも来る横丁のあんまさんだった」といって、外へ逃げ出して行ってしまう。

そこへ帰ってきた女房にこの事を話して女房に呆れられる。女房はうちの子は近所の子ども達より知恵が働くなんていう。
父親はあんなのは知恵者じゃあない。それに引き換え真田幸村の子どもの頃はと、真田三代記の一説を女房に語り始める。
城を取り囲まれた時、まだ14歳だった幸村が、父の昌幸に進言し、敵方の永楽通宝のついた旗を立てて夜討ちに出て、敵方が混乱し同士討ちをしているすきに脱出し危機を逃れ、それ以来、真田の家紋は永楽通宝を6つ並べた六連銭になった。大阪城落城後は薩摩に落ち延びたともいわれている。うちのガキとは比べものにならない。

こんな話を女房にしていると、子どもが戻ってきた。金を返せというと講釈を聞きに行って全部使ってしまったという。何の講釈かと聞くと真田三代記だといい、すらすらと語り出す。子どもは六連銭とはどんな紋なのかを聞く。上に3つ下に3つ並べてあるんだと話しても何度も聞くので、父親がこういうふうにと50円玉を並べ始る。
子どもは今度は自分が並べるといい銭をかき集め、持って表へ飛び出して行ってしまう。
父親 「こん畜生、また講釈を聞きに行くのか」

子ども 「今度は焼き芋を買ってくる」

父親 「ああ、いけねえ うちの真田も薩摩へ落ちた」



    


 
★見聞録★ たいていの演者は間男一件の後で子どもが外へ逃げて行ってしまうところまでで切っています。それでは「真田小僧」の意味が分かりません。さすが六代目の円生はきちんと最後まで演じています。
父親の真田三代記もしっかり聞かせます。
サゲの真田幸村が薩摩へ落ち延びたという話も途中にうまく入れています。

登場するのは3人の親子。ちょっとこましゃくれたところもありますがなかなか気転のきく、利発の子どもと、すぐ怒ったり、叱ったりする、子どもにまんまと銭をかすめ取られてしまうが子どもが可愛いおやじと、しっかり者の女房という暖ったかい家族の雰囲気が感じられます。「子別れ」の親子を見ているようです。

*永楽通宝は、明の永楽帝の時に作られた銭。室町時代に大量に日本に輸入され、江戸時代初期まで流通した。
*真田三代記は元禄時代の歴史小説。これや難波戦記を底本にして「真田十勇士」が生まれた。
*六連銭(ろくれんせん)は、家紋の一つで六枚の銭を図案化したもの。真田家の家紋として知られる。六文銭。円生は「りくれんせん」と発音していました。
幸村薩摩落ち伝説



古今亭志ん朝の『真田小僧【YouTube】


   真田幸村

大阪市天王寺区玉造本町の三光神社境内
   史跡真田の抜穴跡(三光神社境内)

慶長・元和の大阪の合戦の頃、真田幸村がここに偃月城と名づける塁を築き、大阪城内まで通ずる暗道を造ったと言い伝えられている。
   真田の家紋の六連銭が張りつけてある心眼寺の門扉
   心眼寺(大阪市天王寺区餌差町)

元和8年(1622)真田幸村父子の冥福を願って建立された寺。
「まん直し地蔵」があり、まんが悪い時に祈願すると効験があるといわれている。「まんが悪い」とは「間」が転じて「まん」で運が悪いこと。「わるまん」ともいうらしい。
   心眼寺坂

心眼寺に沿って「どんどろ大師」の善福寺の門前へ下る坂




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