「柳田格之進」

 
あらすじ 元彦根藩士の柳田格之進は、文武両道に優れ、清廉潔白だが正直過ぎて人に疎まれ、讒言(ざんげん)されて今は浪々の身。 浅草阿倍川町の裏長屋に17になる娘のきぬと二人暮らし。

 八月の十五夜の月見の晩、気の合った碁仇の浅草の馬道一丁目の質屋、万屋源兵衛の店の離れで対局中に、水戸家から届いた五十両が紛失した。

 番頭の徳兵衛
は柳田を怪しみ、長屋に行って問い詰める。柳田は「わしは知らん、人の物を盗むという事は決してない。裁きになれば疑いは晴れるが汚名は消えない。明日まで五十両つくる」と言って番頭を帰す。

 もとより五十両のあてなどない柳田は腹を切るつもりだが、娘のきぬはそれを見抜き、、自分が吉原へ身を沈めて金を作るという。きぬはもし疑いが晴れたら、万屋の主人と番頭の首を刎ねてくれと頼み、その日のうちに吉原の半蔵松葉という店に行き、五十両の金ができた。

 翌日、柳田は番頭に五十両を渡し、後日金が出たら、その時は番頭と主人源兵衛の首をもらうと約束させ、長屋を引き払う。

 その年も押し迫った煤払いの日、万屋の離れの額縁の裏から五十両が出てきた。源兵衛が柳田と対局中に、ふと置いたのをすっかり忘れていたのだ。源兵衛は柳田を捜させたが、その年は見つからなかった。

 年が明けた年始の挨拶回りの日、番頭は小雪の降る湯島の切通しで、蛇の目傘をさし、宗十郎頭巾を被った身なりのいい、身分の高そうな侍から呼び止められる。なんとこれが柳田格之進で、帰藩が叶い江戸留守居役に三百石で取り立てられたという。

 湯島天神
境内の茶店で番頭は五十両が出てきたことを話し詫びる。柳田は明日の昼頃万屋に行くので、主人共々首をよく洗って置けと言い残し立ち去る。

 翌朝、万屋の店で柳田はお互いをかばい合う万屋源兵衛と番頭を並べて、大上段に振りかぶり一刀両断と斬り下ろす。すると床の間の碁盤が真っ二つ。主従の真心が響いて手元が狂い2人は命を取り留めたのだ。

 早速、吉原の半蔵松葉から娘のきぬを身請けしてきて、娘に詫びると娘も父上のためならと快く応じた。この後、前よりも柳田と万屋源兵衛は深い付き合いをするようになり、番頭の徳兵衛ときぬは万屋の夫婦養子になった。

 そして2人の間に生まれた男の子を柳田格之進が引き取り、家名を継がせたという、柳田の堪忍袋の一席でございました。

   



古今亭志ん朝の『柳田格之進【YouTube】



彦根城天守(国宝)
彦根藩士柳田格之進の藩主井伊氏の居城だが、
今は「ひこにゃん」にはかなわない。


多聞櫓と中堀



馬道通りから浅草寺二天門
万屋源兵衛の店があった馬道一丁目あたり。《地図
柳田格之進の長屋のあった阿倍川町は南西の元浅草4丁目あたり。
江戸時代の地図
おすわどん』の呉服商上州屋もあった。



切通し坂 南西に上る春日通り。《地図
番頭の徳兵衛が柳田格之進とばったり出くわした坂。今は傾斜は緩い。



天神新(夫婦)坂  切通坂から湯島天神へ上る石段。《地図
2人はここから境内に入り、茶店に寄ったのだろう。



湯島天神


湯島天神雪中の図(「絵本江戸土産」広重画) 


江戸名所 湯しま天満宮」(広重画)



実盛坂  湯島3−19と3−21の間を西に上る急な石段。《地図
坂下南側に実盛塚、首洗い井戸、産湯の井戸があったという伝説めいた話がある。
武将としての意気に感じた住民が、井戸や首塚を造ったのではなかろうか。
『ぶんきょうの坂道』 

実盛とは、斉藤実盛のことで、生まれたのも、死んだのもこの地ではない。


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