「吉住万蔵」


 
あらすじ 京橋南八丁堀の蜊河岸(あさりがし)に住んでいる鳴物師吉住万蔵。中山道は高崎城下のひいき客のところへ行った帰りに、熊谷宿扇屋という宿に泊まった。そこの娘のお稲に稽古をつけたことからいい仲になって、帰り際にまたすぐに逢いにくるからと約束して江戸へ帰った。

 万蔵はお稲のことなどはすっかりと忘れて、新島原梅ヶ枝小路杉本という見世の花遊太夫に入れあげてしまう。ついには通い過ぎて、懐具合が悪くなったので、また高崎の旦那を頼って行く。

 熊谷宿に入ってお稲のことを思い出し、扇屋の前に来ると忌中の札が下がっている。前の宿屋に入って聞くと、お稲が万蔵という男の子を宿し、男の不実を恨んで井戸に身を投げて死んだという。

 扇屋に来ていた熊谷寺の住職が万蔵の姿を見て、お稲の相手と見抜き寺まで来るようにいう。住職は寺の墓地に万蔵を連れて行き、新しい土饅頭の前に万蔵を坐らせて、三日三晩の間、ここでお稲の通夜をしないと、お稲の祟りでお前は死ぬと告げる。

 万蔵は夜中に怖さから逃れるために一心不乱に南無阿弥陀仏を唱えていると、耳元で、「くやしい!」と叫ぶ声。それでも一日目は何とか耐えたが、二日目はあまりの恐ろしさに、「助けてくれ!」と声を上げた。その拍子に杉本の花遊太夫に、どうしたのかと揺り起こされた。

 夢の事が気になって仕方がない万蔵は熊谷へと急いだ。扇屋は閉まって売り家の札がかかってている。店の主人が米相場に手を出して失敗し、一家は夜逃げ同様で江戸へ行ったという。江戸の戻った万蔵は新島原へ通う金もなくなり、馬道の仲間の家の二階に間借りをする。

 ある日、仲間たちと吉原冷やかしていると、大見世の大口屋の若い衆(し)が、墨染という花魁が呼んでいるという。万蔵が行って見ると、これがお稲だ。一家で江戸に逃げて来たものの、貧しさから両親は病気になり、相次いで死んでしまったという。残った借金を返すため吉原に身を沈めたのだ。

 墨染はここで逢えたのは神様の思し召し、金はわたしが出すから毎日でも通って来てくれという。万蔵は言われたとおりに、日参するが墨染の借金はかさむ一方だ。墨染は客に起請を乱発して、万蔵が見世へ上がる金を工面している。

 そのうちに客の間でも墨染には真夫、情夫がいることが知れ渡って、客足は遠ざかってしまう。だが、客の中には自分こそが真夫、情夫だと思い込んでいる能天気なやつもいる。それが小伝馬町岡本屋の番頭の勝吉で、墨染からもらった起請を信じて疑わず、店の金を筆の先でドガチャガ、ドガチャガしてちょろまかし、墨染に貢いでいたのだ。

 万蔵という真夫がいることを知った勝吉は、カッとなったのか、世をはかなんだのか、匕首(あいくち)で墨染と無理心中してしまう。

 万蔵は薄幸な墨染(お稲)の死を悼み憐れんで、お稲の伯父から紙の戒名を一晩借りて帰り、通夜の真似事をして、「もう一生女房は持たない。あの世へ行ったら一緒になろう」と菩提を弔う。すると風もないのに蝋燭の火が戒名に燃え移り、めらめらと灰になってしまった。

 翌朝、お稲の伯父がやって来て、和尚から勝吉の戒名を間違えて受け取り、それを万蔵に渡してしまったから返してくれという。

勝吉 「えっ、あの戒名は燃えてしまいました。あの世に行ったら夫婦になろうと言っていたら、蝋燭の火が燃え移って全部、灰になってしまいました」

伯父 「なに、勝吉の戒名の前で夫婦約束、それを聞いちゃ焼(妬)けるのは当たり前だ」


  

もとは人情噺だったのが、講談畑に移り、それを三遊亭圓生が邑井貞吉(四代目)から教わってサゲをつけた。

蜊河岸は、かつての三十間堀の西向きの河岸。

新島原遊郭(中央区新富1丁目)は、もとは近江膳所藩本多隠岐守の屋敷跡地に明治元年11月にできて、明治4年6月に廃止された。跡地は町屋となった。明治5年、一画に新富座が建ったが、関東大震災で焼失した。
島原遊郭は『島原八景』で。

  
蜊河岸跡・三ツ橋のうちの真福寺橋跡あたり 《地図》 「説明板」(三ツ橋) 
蜊河岸の説明板は京橋公園内にあるようだ。



高崎城址乾櫓東門 「説明板

中山道(新町宿→高崎宿)』



熊谷寺ゆうこくじ
熊谷直実くまがいなおざね)が晩年仏門に入り、
故郷の熊谷(くまがや)の館跡に草庵を結び、蓮生庵と号したのを始まりとする。

中山道(鴻巣宿→熊谷宿)』



新島原遊郭跡 《地図
もとは都立の勤労福祉会館があった。
圓生も、「今は福祉会館がある・・・」と演じていた。昭和40年代のことだろう。
今は都下水道局の工事資材置き場で、一部は児童遊園になるようだ。
新富座があった京橋税務署の所も工事中。



605(2017・12)




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