「鈴振り」


 
あらすじ 遊行寺大僧正は後継者を誰にしたらよいか悩んでいた。やっと一計が浮かんでいよいよ跡取りを決める日になって大勢の若い僧が遊行寺に集合した。千人もの若い僧が客殿に集められたその光景はまるで冬瓜畑のように青々している。

 若い僧たちは息子に白い紐のついた小さなを結ばれて奥の大広間へと送られて行く。一体これはどういうことなのかと皆が訝しがっている。全員が揃ったところで、
大僧正「今日は特別な日によって酒、魚、料理を食するように・・・」との五戒破りの意外なお言葉だ。

 続いて藤沢宿の遊女やら江戸は新橋柳橋の芸者やら、選りすぐりの美女連がスケスケの着物で現れ、若い僧の膝元にピタッとくっついて座って、胸元、裾元もあらわにしな垂れかかり、艶然とお酌を始めた。

 すぐに大広間中にチリン、チリンと鈴の大合奏が始まった。若い僧の中にはこれも我々を試す修行の一つかと悟る者もいて、無念無想の境地に入ろうとするが、女たちの柔らかい肌を感じるし、いい匂いが鼻をついて、身体の一部の反応は如何ともしがたい。

 これを間のあたりに見ていた大僧正、あまりの鈴のうるささと、若い僧たちの堕落ぶりに耳をおおい、「これぞまさに末法の世じゃ」と、目をつぶって嘆いている。

 大僧正がもうこの中には自分の後継者たる者はおらんと、諦めて出て行こうとすると、一人の若い僧が目を半眼に開いて、女や酒には目もくれずに鈴の音も立てずに静かに座禅を組んでいる。

 大僧正は感激して跡目を継ぐのはあの僧と決め、部屋に呼んで、「鈴を見せるように」と言い僧衣の前をめくらせると鈴がない。

若僧「はい、鈴はとうに振り切れてしまいました」


  

 志ん生はこの噺の枕に十八檀林の言い立てを入れていた。
「大僧正の位になるまでの修行となるってえと大変で、十八檀林という寺を抜けて行かなきゃならない。その修行の最初(はな)に飛び込むってえのが、①下谷の幡隨院という寺・・・・」、ここから②鴻巣の勝願寺、③川越の蓮馨寺、④岩槻の浄国寺、⑤下総黄金の東漸寺、⑥生実の大厳寺、⑦滝山の大善寺、⑧常陸江戸崎の大念寺、⑨上州舘林の善導寺、⑩本所の霊山寺、⑪結城の弘経寺、⑫下総国飯沼の弘経寺、⑬深川の霊厳寺、⑭上州新田の大光院、⑮瓜連の常福寺、⑯小石川の伝通院、⑰鎌倉の光明寺、⑱芝の増上寺、「ここまでの修行が大変であります」と言い立てる。

檀林」は栴檀林の略で、「栴檀は双葉より芳し」ともいう。十八檀林は浄土宗の学問寺で、この噺の遊行寺(時宗)とは関係ない。

       

遊行寺

 関東十八檀林(一部)


幡随院坂 《地図
左が現在の幡随院(小金井市)で一般の参拝は不可。
もとは浅草神吉町(台東区東上野5丁目)にあった。
江戸切絵図」の中央の少し上の山崎町の下に①幡随院がある。
山崎町は『黄金餅』・『双蝶々』にも登場する。



勝願寺 『中山道(上尾宿→鴻巣宿)』



東漸寺 『水戸街道(松戸宿→我孫子宿)』



⑥大厳寺への道標「大がんじみち」 《地図
竜沢山大厳寺への道で、天文17年(1548)(天文20年とも)、
生実(北生実)城
主の原胤栄と夫人の竜沢尼が
帰依する道誉上人を開基として創建されたものと伝える。
徳川家康の帰依を受け、寺領100石の寄進を受けるなど、
代々徳川氏の保護を受けていた。
境内はかつてカワウの棲息地の「鵜の森」として有名で、
一時は5万羽もいたというが、昭和35年頃には鵜は姿を消したそうだ。

房総往還②


善導寺跡の竜の井 《地図
イチョウの下 「説明板
平成2年にここ館林駅前広場から楠町に移転した。
千人同心日光道⑦




弘経寺(ぐぎょうじ)「説明板

⑬霊厳寺は『ちきり伊勢屋(下)』に記載。


伝通院



光明寺山(三)門



増上寺





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