「後生鰻」

 
あらすじ
 信心に凝(こ)った大家(たいけ)の隠居、蚊が腕に止まっても叩かず、血を吸われっぱなしにする大の殺生嫌い。
日課の浅草観音へ参った後、天王橋脇の鰻屋の前を通りかかると、親方がまないたの上に鰻を乗せ、キリで刺そうとしている。これを見た隠居、殺生だからそんなことをするなというが、親方は商売で蒲焼にするのだから仕方ないという。それならと隠居は鰻を2円で買い取り、ざるへ入れて前の川に持っていき、「南無・・・・・、これからはもう人間につかまるやよ」とボチャーンと投げ込んで、「ああ、いい功徳をした」。

次の日も、次の日も隠居が来て鰻を買って、川へ投げ込んで行く。おかげで鰻屋は大儲けだ。鰻屋仲間は「あの隠居つきでお前の店を買おう」なんてうらやましがる。
そのうちぷっつりと隠居がは来なくなった。鰻屋は金づるが切れたのを惜しがっていたが、ある日また隠居が現れた。だが、その日は河岸に行かず鰻を仕入れなかった。
まな板に乗せる物をと、ドジョウ、金魚を探したがこれもない。もう何でもいいと赤ん坊をまな板に乗せキリを振り上げる。
これを見て驚いた隠居、赤ん坊を100円で買い取り、
「もう決してあんな恐ろしい家に生まれて来るのではないぞ、南無・・・・・」と前の川へボチャーン。





     


 
残酷で不道徳な落ちなのか、それとも宗教を笑った、風刺とブラックユーモアの極みなのか、聞く人によって様々でしょう。むろん戦時中は「禁演落語」の一つでした。『駒長』に記載。
桂歌丸は赤ん坊ではなく、鰻屋の女房を投げ込んでますがどちらも人間、そんな小手先を労することもないと思いますが。

後生(ごしょう)とは、仏教で来世のこと。また死後に極楽に生まれることで、隠居は現世で功徳(善行)を積めば、極楽往生して来世は安楽に暮らせると思っていたのでしょう。

鰻屋があった天王橋は、三味線堀から隅田川へ落ちる鳥越川があって、浅草御門からの道(現江戸通り・日光街道)が渡るところに橋があった。安永7年(1778)以降はここに橋が二つ並んでいて、二つとも俗に天王橋といった。『御府内備考』には鳥越橋と出ている。明治以降は須賀橋といった。橋を渡って浅草観音から吉原への通路で日夜、往来が多かった。(『落語地名事典』より) 
今は川も橋もない。《地図》 

 



古今亭志ん生の『後生鰻【YouTube】

   第六天榊神社の浅草文庫碑
(天王橋跡と隅田川の間)

明治7年に創設された官立の図書館跡。
左は繁昌稲荷社で、第六天榊神社は、
下町八福神 」の健康長寿の神。
   浅草見附(浅草御門)跡 《地図

隠居は浅草観音からの帰り、天王橋から
ここを通り、日本橋あたりに帰ったのだろう。






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