「宮戸川」

 
あらすじ 小網町の質屋のせがれの半七将棋に凝って、今夜も遅くなって帰って来た。毎度のことで親父から締め出しを食って家に入れない。向いの船宿の娘のお花が家の戸をドンドン叩いている。歌留多の会で遅くなって、お花も締め出しを食ったのだ。

 半七は霊岸島おじさんの家へ泊りに行くと言うと、お花もおばさんの家に泊りに行きたいが肥後の熊本なので、霊岸島のおじさんの所へ一緒に連れて行ってくれという。

 酸いも甘いもかみ分けた早合点で飲み込みの早過ぎるおじさんの所へ、こんな夜更けに若い女連れで行けば、二人の仲を勘違いするのは必定、半七はついて来るなと冷たいが、お花は後をついて来て離れず、とうとうおじさんの家に来てしまった。

 とうに寝込んでいたおじさん夫婦、おじさんが「小網町の半七が来た」に寝ぼけた婆さんは、「小網町で半鐘が鳴った」と勘違いし、位牌を腰巻にくるんでウロウロする始末。

 おじさんが戸を開けると半七が立っている。また将棋で締め出しを食ったのかとあきれ顔で中へ入れるが、後ろにきれいな娘がいるのに気づいた。「そうか分かった、何も言うな、心配するな、万事俺にまかせろ」と困り顔の半七の言うことなど聞かずに、お花を中に入れ、二人を二階へ上げる。

 おじさん夫婦、美男美女の若いカップルを見て、昔の馴れ初めの頃などを思い出して興奮気味だ。「おじいさんが二十二、あたしが二十(はたち)、今だに二つ違いは変わりませんねぇ」なんてごもっともな話で盛り上がっている。

 一方、二階の二人、布団は一つしかない。半七は真ん中に皺(しわ)を寄せ、ここが境界線でここから絶対に侵入してはいけないなんて言って、背中合わせに寝るが、まんじりともしない二人。

 そのうち降り出した雨が激しくなったと思うと、ゴロゴロ、ピカピカ、そのうちにカリカリと稲光りとともに、ガラガラドカ〜ンとが落ちた。お花は思わず半七の胸にしがみつく。半七もお花の背中に手を回した。鬢(びん)付け油の匂いが半七の前頭葉を刺激する。

 お花の燃え立つような緋縮緬長襦袢の裾は乱れ、雪のような真っ白な足がすぅ〜と。いくら晩熟(おくて)とはいえ、木石ならぬ半七は・・・・・どうしてもこの後を聞きたい方は楽屋へどうぞ。


    



小網町(中央区日本橋小網町)は町内に末広稲荷、鰹河岸、行徳河岸などがあって、近国から高瀬舟が出入りして舟運が盛んだった。それで諸商品問屋が多く、行徳河岸からは下総の行徳へ、さらに木更津方面への定期船が出ていた。
 町名の由来は太田道灌が命名したという小網稲荷神社からという。また網を引いて将軍の観覧に供した漁師たちが、御肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得た。この漁師たちが一丁目の町角に網を一張干しておく風習から生じた町名とも。
 女流俳人の菊后亭秋色、狂歌師月花永女は小網町の出身とも、住んでいたともいう。永女は奉公先の大名家で、畳に落ちていた節分の豆を拾ったのに、百両の金包を拾ったと疑われて手討ちになりそうになった。疑いが晴れて即座に、「落ちたるを拾わぬみ代に拾いしは 今日の命と節分の豆」と詠んだという。

宮戸川(下)」は、お花、半七は晴れて夫婦になるが、ある夏の日にお花は小僧をお供に浅草観音に参った後、何者かにかどわかされて行方知らずになった。あちこちと探したが見つからず仕方なく葬式を出し、一周忌の法事を済ませた半七は山谷堀から戻る舟の中で、船頭がお花を乱暴して殺して宮戸川(隅田川)に投げ込んだという話を聞く。ここから芝居がかりとなって。結局は半七のの話で、むろんお花も無事でいる。落ちは「夢は小僧(五臓)の使い(疲れ)だわい」となるが、暗くて笑いがなく面白くもない、それも夢の話なので演じられなくなった。私も平成23年に柳家小満ん落語研究会で演じたのをTVで見たことしかない。


立川談志の『宮戸川【YouTube】



鎧の渡し」兜町の大原稲荷神社辺りから
小網町の河岸にあった蔵地を望む。(名所江戸百景)
鎧之渡』(江戸名所図会)

落語『派手彦』ではお彦さんがここから船で木更津に向かった。



『浅草川大川端宮戸川』(名所江戸百景)



宮戸川吾妻橋(「絵本江戸土産」広重画)

   小網神社 「説明板」 
地図

もとは稲荷神社だった。ここは東堀留川の河岸地の一画だった。右は五角形の神楽殿
  霊岸橋から亀島川下流方向
   

霊厳島之碑(越前堀児童公園内) 《地図

寛永元年(1624)、この辺りを埋め立てて、雄誉霊厳上人が霊厳寺を創建し、その後、越前福井の藩主、松平忠昌が霊厳寺の南側に広大な浜屋敷を拝領した。明暦3年(1657)の大火で類焼し、万治2年(1659)深川に移転した。




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