「蜀山人」


 
あらすじ 大田南畝、別名を蜀山人、狂名を四方赤良だが、れっきとした幕府の御家人。
 寛政12年(1800)、江戸城内の竹橋の倉庫に保管されていた勘定所の書類を整理する御勘定所諸帳面取調御用の任につく。次から次に出てくる書類の山に、「五月雨の 日もたけ橋の 反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んだ。

 享和元年(1801)、大坂の銅座に赴任のため東海道を上って、早や近江八景の瀬田の唐橋あたりに来ると、駕籠屋が来て「蜀山人先生でしょ、近江八景を全部詠み込んでくれたら、ただで乗せますよ」、蜀山人「乗せたから 先は粟津か ただの駕籠 ひら石山や 馳せらしてみい」と、八景を見事に詠み込んだ。

 逢坂山を越えて三条大橋に着いた。さぞ立派な橋と思いきや、橋は古くなりあちこち継ぎはぎだらけ。そこで先生、「来てみれば さすが都は歌どころ 橋の上にも 色紙短冊」。
お伊勢参りの土産に伊勢の壺屋の煙草入れを買った。帰りに夕立にあい、「夕立や 伊勢の壺屋の煙草入れ 古なる光る強いなり(雷)」。伊勢神宮の神域では獣の皮の持込みが禁じられていたので、紙で皮に似せて作った壺屋の煙草入れが伊勢参りの土産として人気があった。

 文化元年(1804)、長崎奉行所支配勘定方を命ぜられた蜀山人先生は、山陽道を西に向かった。一の谷の古戦場近く、平敦盛の墓のそばの敦盛そば屋で、「呼び止めて 年も二八のあつもりを 打って出したる 熊谷のそば」とはさすがに上手い。美味いか? 敦盛は二八ではないが、二八そばのあつもり(敦盛そば・熱盛そば)ということだろう。

 翌年(文化2年)に長崎で浦上街道を時津に遊んだ時、今にも落ちてきそうな頭上の鯖(さば)くさらかし岩を眺めた。鯖「腐らかし」で、浦上街道を長崎まで行く魚売りが、この岩の下まで来た時、岩が落ちてこないか心配して、落ちた後に通ろうと思い待っていたら、売り物の鯖が腐ってしまったという話を聞いて、「岩角に 立ちぬる岩を見つつおれば に(荷)なえる魚も さは朽(くち)ぬべし」と詠んだので、なお一層この岩が有名になったという。

 その年の秋、長崎奉行所勤めを終えて江戸へ帰る蜀山人先生。「故郷へ 飾る錦は 一歳(いっさい)を ヘルヘトワンの羽織一枚」、勘定方は役得の多い職で一財産を成す人もいる中、蜀山人先生が土産としのは南蛮渡りのラシャの羽織ただ一枚。


 江戸へ帰った蜀山人先生は文化4年(1807)の永代橋の落下を目撃して、「永代と かけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」

 文化5年(1808)、堤防の状態などを調査する玉川(多摩川)巡視の役目に就く。谷保天満宮を参拝して、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼな天神」、神無月は出雲の国へ行くべきなのに、賑やかな目白で出開帳とは金儲け主義で頂けないとの皮肉か。これが野暮天の由来となったという。

 文政3年(1820)、新宿の熊野神社水鉢を奉納する。参拝の帰りの道すがら、店の前に水を撒いていた女中のお軽があやまって通りかかった足軽の足にかけてしまった。お軽は謝るが、足軽の怒りはおさまらない。見かねた蜀山人先生、「往きかかる 来かかる足に水かかる 足軽いかる おかるこわがる」と、足軽の怒りを和らげた。

 食通、グルメの蜀山人先生は料理屋の八百善がお気に入りで、常連客の一人だった。
「詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者はおかつ 料理八百善」と、詠んでいる。傾城のかのさん、芸者のおかつさんは、どこの遊郭、色街の女性だったのだろうか。風流人、遊び人の面目躍如というところか。


 文政6年(1823)、登城の途中で転んだことがもとで死去。

「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」が辞世とか。蜀山人の一席  




堅田の浮御堂
近江八景「堅田落雁」・落語『近江八景




三条大橋
広重 三条大橋



伊勢神宮 おはらい町 《地図


伊勢の壺屋の煙草入れ
(革製の模倣品・松阪市立歴史民俗資料館に展示)
本物は擬革紙製でも丈夫で、皮のような風合いを出していたようだ。
伊勢街道沿いには「壷屋の煙草入」の店がたくさん並び、
参宮者の土産として好評だったという。 『伊勢街道③



敦盛塚 《地図》  「説明板
熊谷直実に討たれた平敦盛の供養塔という。そばに「敦盛そば」屋がある。



長崎奉行所立山役所正門(復元) 「説明板
長崎歴史文化博物館(立山1-1)の一部になっている。
長崎奉行所は東役所と西役所(県庁の所)があった。
延宝元年(1673)、東役所がここ立山役所に移った。
大田南畝はどちらで勤めていたのか?


正門から奉行所



鯖くさらかし岩 「説明板
鯖「腐らかし」で、浦上街道(時津街道)を長崎まで行く魚売りが、
この岩の下まで来た時、岩が落ちてこないか心配して
落ちた後に通ろうと思い、待っていたら売り物の鯖が腐ってしまったという話。

「岩角に 立ちぬる岩を見つつおれば になえる魚も さはくちぬべし」(蜀山人)



谷保天満宮 (関東三大天神の一つ)
天神島(府中市本宿)から養和元年(1181)ここへ遷座と伝える。
本来は「やほ」でなく、「やぼ」だったとも。
「野暮天」の語源由来逸話:蜀山人の狂歌に、
「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼな天神」 
陰暦10月は神々は出雲へ行って神無月となるが、
谷保天満宮はこの月に目白で開帳したというわけで、
「野暮=谷保な天神」→「野暮天」というわけ。「野暮」の語源は雅楽からだとか。


谷保天神社『江戸名所図会』



蜀山人奉納の水鉢(文政3年(1820))
新宿の熊野神社境内 「説明板
蜀山人による銘文が刻まれている。


熊野神社
紀州出身の中野長者・鈴木九郎によってに創建されたと伝える新宿の総鎮守



八百善
享保2(1717)年に浅草山谷で創業、江戸でも随一の名店となり、
文人墨客が集う高級サロンとなった。
文政5(1822)年には料理テキスト『江戸流行料理通』を発行し、
これは江戸土産としても人気となった。(「江戸の名物・名店」より)






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