「蜀山人」
★あらすじ 大田南畝、別名を蜀山人、狂名を四方赤良だが、れっきとした幕府の御家人。
天明3年(1783)、三味線堀に隣接する秋田藩佐竹家の上屋敷に三階建ての高殿が建った。言祝ぎの一員として招待された蜀山人は、「三階に三味線堀を 三下り二上り 見れどあきたらぬ景」と祝った。
寛政6年(1794)2月、湯島聖堂で行われた学問吟味では悠々と首席(御家人中)で合格し、銀10枚を与えられた。同8年、48歳で御徒から支配勘定へと出世した。同12年、江戸城内の竹橋の倉庫に保管されていた勘定所の書類を整理する御勘定所諸帳面取調御用の任につく。次から次に出てくる書類の山に、「五月雨の 日もたけ橋の 反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んだ。
享和元年(1801)、大坂の銅座に赴任のため東海道を上って、早や近江八景の瀬田の唐橋あたりに来ると、駕籠屋が来て「蜀山人先生でしょ、近江八景を全部詠み込んでくれたら、ただで乗せますよ」、蜀山人「乗せたから 先は粟津か ただの駕籠 ひら石山や 馳せらしてみい」と、八景を見事に詠み込んだ。
逢坂山を越えて三条大橋に着いた。さぞ立派な橋と思いきや、橋は古くなりあちこち継ぎはぎだらけ。そこで先生、「来てみれば さすが都は歌どころ 橋の上にも 色紙短冊」。
お伊勢参りの土産に伊勢の壺屋の煙草入れを買った。帰りに夕立にあい、「夕立や 伊勢の壺屋の煙草入れ 古なる光る強い紙なり(雷)」。伊勢神宮の神域では獣の皮の持込みが禁じられていたので、紙で皮に似せて作った壺屋の煙草入れが伊勢参りの土産として人気があった。
文化元年(1804)、長崎奉行所支配勘定方を命ぜられた蜀山人先生は、山陽道を西に向かった。一の谷の古戦場近く、平敦盛の墓のそばの”敦盛そば屋”で、「呼び止めて 年も二八のあつもりを 打って出したる 熊谷のそば」とはさすがに上手い。美味いか? 敦盛は二八ではないが、二八そばのあつもり(敦盛そば・熱盛そば)ということだろう。
翌年(文化2年)に長崎で浦上街道を時津に遊んだ時、今にも落ちてきそうな頭上の”鯖(さば)くさらかし岩”を眺めた。鯖「腐らかし」で、浦上街道を長崎まで行く魚売りが、この岩の下まで来た時、岩が落ちてこないか心配して、落ちた後に通ろうと思い待っていたら、売り物の鯖が腐ってしまったという話を聞いて、「岩角に 立ちぬる岩を見つつおれば に(荷)なえる魚も さは朽(くち)ぬべし」と詠んだので、なお一層この岩が有名になったという。
その年の秋、長崎奉行所勤めを終えて江戸へ帰る蜀山人先生。「故郷へ 飾る錦は 一歳(いっさい)を ヘルヘトワンの羽織一枚」、勘定方は役得の多い職で一財産を成す人もいる中、蜀山人先生が土産にしたのは南蛮渡りのラシャの羽織ただ一枚とは眉唾物では?
江戸へ帰った蜀山人先生は文化4年(1807)の永代橋の落下を目撃して、「永代と かけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」
文化5年(1808)、堤防の状態などを調査する玉川(多摩川)巡視の役目に就く。谷保天満宮を参拝して、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼな天神」、神無月は出雲の国へ行くべきなのに、賑やかな目白で出開帳とは金儲け主義で頂けないとの皮肉か。これが野暮天の由来となったという。また、巡視した折に深大寺に止宿して深大寺そばを広く世に宣伝してからは、江戸の人士とりわけ武蔵野を散策する文人墨客に愛され、それが深大寺そばの名を高めたことになったという。
一方、永坂の更級蕎麦は、「更科のそばはよけれど高いなり もりを眺めて二度とこんこん」と、皮肉っている。「高稲荷」は当時の更科蕎麦の背後にあった。蜀山人でも高いというくらいだから、庶民には手が出なかったのでは。
吉原でよく遊んだ蜀山人は、文政元年(1818)に「北州」を遊女部屋で?作詞し、もとは名妓だった川口直が清元の節をつけた。廓の内情に精通し、吉原の年中行事に四季折々の風物をうまくからませ、いろんな故事来歴や古歌などを引用した、「音で描いた吉原の風物詩」ともいうべき美しい描写曲で、その優雅腕麗さは清元曲中随一という。【YouTube】
この年古稀を迎えた蜀山人は登城の途中の神田橋でつまづいて転んでしまった。それが衰えの始まりで、以来健康がすぐれなかった。
文政3年(1820)、新宿の熊野神社に水鉢を奉納する。参拝の帰りの道すがら、店の前に水を撒いていた女中のお軽があやまって通りかかった足軽の足にかけてしまった。お軽は謝るが、足軽の怒りはおさまらない。見かねた蜀山人先生、「往きかかる 来かかる足に水かかる 足軽いかる おかるこわがる」と、足軽の怒りを和らげた。
食通、グルメの蜀山人先生は料理屋の八百善がお気に入りで、常連客の一人だった。
「詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者はおかつ 料理八百善」と、詠んでいる。傾城のかのさん、芸者のおかつさんは、どこの遊郭、色街の女性だったのだろうか。
また、「詩は詩仏 書は米庵に狂歌乃公(おれ) 芸者小万に料理八百善」というのもある。よほど八百善が気に入っていたようだ。芸者の小万は堀(山谷堀河口)の花街の芸者。十六の時に船宿武蔵屋から座敷に出、その憂いを含む美貌と、酒が入った時に出る巻き舌の火のような啖呵で、当代随一といわれた芸者。その気風のよさには酒癖の悪い武芸自慢の侍も、大商人も大名も、むろん蜀山人先生も兜を脱いだようだ。
文政6年(1823)4月、自宅で深い眠りから覚めずについに息を引き取った。大往生というべきだろう。
辞世は「生き過ぎて七十五年食いつぶす 限り知られぬ天地(あめつち)の恩」、
「今までは人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」とも。
墓は文京区白山の本念寺にある。蜀山人の一席
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三味線堀の転軫(てんしん)橋跡あたり 《地図》 「説明板」
不忍池から流れ出た水は、忍川となって三味線堀に落ち、
さらに鳥越川となって新堀川に合して隅田川に落ちた。
堀の形が三味線に似ていた。今は埋め立てられてしまった。『
三味線堀(明治21年頃)
秋田藩佐竹家の上屋敷の三階建ての高殿は左上奥か?
堅田の浮御堂
近江八景「堅田落雁」・落語『近江八景』
三条大橋 『広重 三条大橋』
伊勢神宮 おはらい町 《地図》
伊勢の壺屋の煙草入れ (革製の模倣品・松阪市立歴史民俗資料館に展示)
本物は擬革紙製でも丈夫で、皮のような風合いを出していたようだ。
伊勢街道沿いには「壷屋の煙草入」の店がたくさん並び、
参宮者の土産として好評だったという。 『伊勢街道③』
敦盛塚 《地図》 「説明板」
熊谷直実に討たれた平敦盛の供養塔という。そばに「敦盛そば」屋がある。
佐野峠から佐波川、大海湾方向 「説明板」
ここは駕籠建場跡で、蜀山人が「山陽道第一の佳景」と書いている眺め。
『山陽道(福川駅→大道駅)』
長崎奉行所立山役所正門(復元) 「説明板」
長崎歴史文化博物館(立山1-1)の一部になっている。
長崎奉行所は東役所と西役所(県庁の所)があった。
延宝元年(1673)、東役所がここ立山役所に移った。
大田南畝はどちらで勤めていたのか?
正門から奉行所
鯖くさらかし岩 「説明板」
鯖「腐らかし」で、浦上街道(時津街道)を長崎まで行く魚売りが、
この岩の下まで来た時、岩が落ちてこないか心配して
落ちた後に通ろうと思い、待っていたら売り物の鯖が腐ってしまったという話。
「岩角に 立ちぬる岩を見つつおれば になえる魚も さはくちぬべし」(蜀山人)
郡境碑
「東 周防之国 熊毛郡」・「西 周防の国 都農郡」
長崎奉行所での勤務を終えて江戸に帰る道中記「小春紀行」(文化2年(1805))に、
「松原をゆけば道の左に従是東熊毛郡、従是都濃郡といえる杭なり、
わびしき人家あり、たお(垰)市といふ」
『山陽道(高水駅→福川駅)』
谷保天満宮 (関東三大天神の一つ)
天神島(府中市本宿)から養和元年(1181)ここへ遷座と伝える。
本来は「やほ」でなく、「やぼ」だったとも。
「野暮天」の語源由来逸話:蜀山人の狂歌に、
「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼな天神」
陰暦10月は神々は出雲へ行って神無月となるが、
谷保天満宮はこの月に目白で開帳したというわけで、
「野暮=谷保な天神」→「野暮天」というわけ。「野暮」の語源は雅楽からだとか。
谷保天神社『江戸名所図会』
深大寺山門
元禄8年(1695)築造の境内最古の建物。
「深大寺」・「深大寺蕎麦」(『江戸名所図会』)
松連寺坂(右は松連寺跡の百草園)
「武蔵野の百草のすえをわけゆけば 松につらなる寺もこそあれ」
『川崎街道②』
新よし原仲の町の桜
「新吉原」
「花というはこれよりほかに仲之町 吉野は裸足 花魁は下駄」(蜀山人)
『松樓私語』は吉原の松葉屋の1年を大田南畝が聞き書きしたもの。
宝篋印咒塔(江東区深川2丁目の心行寺境内) 「説明板」
蜀山人の作詞した「北州」に清元の節をつけた川口直が
夫の菩提を弔うために建てた。
便々館湖鯉鮒狂歌碑(文政2年(1819)) 「説明板」
「三度たく めしさへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」
碑文は蜀山人の書。
『青梅街道①』
蜀山人奉納の水鉢(文政3年(1820))
新宿の熊野神社境内 「説明板」
蜀山人による銘文が刻まれている。
熊野神社
紀州出身の中野長者・鈴木九郎によってに創建されたと伝える新宿の総鎮守
「熊野十二社」
向島百花園の庭門
扁額は蜀山人、左右の門柱の「春夏秋冬花不断」と「東西南北客争来」の、
一対の聯(れん)は、蜀山人が狂歌で「詩は詩仏」と歌った大窪詩仏の書(いずれも複製だが)
「花屋敷」の「敷」は極端に崩してある。
江戸時代には「屋敷」という呼び名は武士にしか許されず、
庶民の庭の百花園では使うことができない呼び名だったからという。
いつの時代もつまらない「忖度」があるものだ。
『東京散歩(墨田区・葛飾区)』
八百善 享保2(1717)年に浅草山谷で創業、江戸でも随一の名店となり、
文人墨客が集う高級サロンとなった。
文政5(1822)年には料理テキスト『江戸流行料理通』を発行し、 これは江戸土産としても人気となった。(「江戸の名物・名店」より)
水屋 「説明板」
「冰香」(ひょうこう)の筆跡は蜀山人の狂歌にも詠まれた、
寛政の4大詩人の大窪詩仏のもの。
『中山道(本庄宿→新町宿)』
五料の茶屋本陣・お西(中山道松井田宿) 「説明板」
茶釜石(手前)
叩くと空の茶釜のような音がするのでその名がある。
「五科(五両)では あんまり高い茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人」(蜀山人)
『中山道(安中宿→松井田宿)』
本念寺
「大田南畝墓」(文京ふるさと歴史館)
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