「佃祭」  三遊亭金馬(四代目)


★あらすじ
 神田お玉が池の小間物屋の次郎兵衛さん。佃祭りを見物してしまい佃の渡しから暮れ六つのしまい船に乗ろうとすると、に「旦那さま、お待ちなすって」と、袖を引っ張られ引き留められる。女は五年前に奉公先で五両の金をなくしてしまい吾妻橋から身投げをするところを次郎兵衛に助けられ、五両の金をもらったという。

 やっと思い出した次郎兵衛さん、しまい船も出てしまい女が嫁いだ船頭の家に行く。しばらくすると周りが騒がしくなり、船頭の亭主が駆け込んでくる。しまい船が転覆して全員溺れて死んだという。女のお陰で命拾いをした次郎兵衛さんは、船頭夫婦の酒、肴のもてなしを受けながら今夜はここへ泊まることにする。

 一方、佃島で船が転覆して全員溺れ死んだと聞いて治郎兵衛さんの留守宅は大騒ぎ。「忌中」の札を張り、早桶を運び込み、坊さんを頼み、くやみ客がぞろぞろ来る。

 翌朝、女の亭主の船頭に送ってもらい次郎兵衛さんが帰ってくる。「忌中」の札を見てびっくりだが、皆は治郎兵衛さんの姿を見て、「わあ、幽霊がぁ〜、どうか浮かんでください。・・・南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と大騒ぎだ。やっと次郎兵衛さんの話を聞き皆で納得、大喜びする。

 この話を一部始終聞いていたのが長屋に住む与太郎さん。人に情けをかければ、いずれ自分にかえってくると信じ込む。

 与太郎は自分の持ち物をすべて売り払い何とか二両の金をつくる。この金を持って毎日身投げを探し歩く。ある日、御厩の渡しまで来ると身投げをしようとする女を見つけて引き止める。店の五両の金を落として身投げをするという。

 与太郎さんは二両渡して身投げをやめさせようとするが、女はどうしても五両なければだめだという。

与太郎 「二両あげるから今日の身投げはへそまでにしておきなさい」

 収録:昭和59年5月
NHKテレビ「金曜招待席」





 ★見聞録 本来のサゲは、与太郎が永代橋で身投げをしそうな女を抱きとめる。女は身投げではなく歯が痛いので戸隠さまへ願をかけているのだという。たもとに石がいっぱい入っているじゃないかと問うと、女が「これは戸隠さまへ納める梨でございます」というものです。
 歯痛には戸隠さまに願を掛け、梨を流してその後、梨を断つと歯痛が治るという信心、風習を知らないと分からないものです。噺の枕でこの風習を説明が必要でしょう。この点を考え工夫して金馬はサゲを変えたのでしょうが、あまりいいサゲとはいえないでしょう。三代目の金馬は枕で「戸隠さまへ納める梨」について説明していた。

四代目金馬は小金馬時代、「お笑い三人組」で活躍し人気がありました。「笑点」のレギュラーだった時もあるそうですが、記憶にありません。四代目金馬を継いだ後は古典落語一筋のようです。

     
古今亭志ん朝の『佃祭【YouTube】



   佃島渡船碑 《地図

渡し船は江戸時代から昭和39年8月の佃大橋完成まで続いた。

佃島
  対岸の佃大橋西詰まで渡し船が通っていた。
   佃島の住吉神社

江戸時代初め、摂津(大阪)の漁師が家康の命で集団移住したのが無人島だった佃島。移住の際に住吉大社(大阪市住吉区)を勧請したのが住吉神社。ここで、8月に行われるのが佃祭り。

佃島 住吉明神社」(『江戸名所図会』)
   佃煮屋(佃の渡し近く)

漁師が海に出る時の弁当の菜に雑魚を煮付けたのが佃煮。


「佃島の渡し」(昭和初期)

   次郎兵衛さんが身投げをしようとする女を助けた吾妻橋。落語では自殺の名所で、『文七元結』・『唐茄子屋政談』・『星野屋』・『身投げ屋』にも登場。


隅田川百景「吾妻橋帰帆」(広重)

  お玉が池跡に立つお玉稲荷大明神(千代田区岩本町2−5)
元は、桜が池といい不忍池よりも大きかったという。池のほとりの茶店のお玉という娘が恋の悩みからこの池に身を投げてからお玉が池と呼ばれるようにやった。池は振袖火事(1657年)の残土で徐々に埋められ姿を消し地名だけが残った。

於玉が池の故事」(『江戸名所図会』)
  次郎兵衛さんの小間物屋の店があった、神田お玉が池(昭和通りと靖国通りが交差するあたり一帯)
漫画「赤胴鈴之助」の先生の千葉周作の道場があった所として懐かしい。
   お玉が池種痘所跡(岩本町2-7) 

東大医学部発祥の地、
説明板」に「剣士千葉周作の道場玄武館」、「東京大学医学部発祥の地」とある。



御厩河岸(名所江戸百景) 

御厩河岸


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