「源九郎狐」
★あらすじ 大和郡山の源九郎狐が江戸見物にやって来た。湯島の妻恋稲荷が関東一円の稲荷を集めて歓迎会を開いた。
源九郎狐は自分は大和郡山の遊郭の中に祀られ、遊女たちからの信仰も篤く、モテモテだと自慢たらたらだ。笠間の紋三郎稲荷と王子稲荷は源九郎狐を、二次会で吉原に行こうと誘う。
源九郎狐は大乗気だが、駕籠に乗り疲れているというので、のんびりと舟で神田川をお茶の水の茗渓を楽しみながら下り、隅田川から猪牙舟で山谷堀に入り、日本堤の八丁土手から衣紋坂を下り、見返り柳から吉原大門をくぐった。
大和郡山の遊郭とは比べようもない、その華やかさと賑わいに源九郎狐はびっくりして、うっかり尻尾を出してしまいそうだ。
源九郎狐は吉野楼という見世に上がって、静香花魁を敵娼にする。見ると座敷の床の間に初音の鼓が置いてあるので懐かしくて、静香に打ってもらう。
とたんに源九郎狐は狐忠信の調子になり、「雨乞い故に殺されしと、思へば照る日がええ恨めしく、曇らぬ雨はわが涙・・・・・」、
すると新造が襖を開けて、「花魁、そのお客を振(降)っておやんなさいまし」
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源九郎稲荷神社 《地図》
かつては日本三大稲荷の一つに数えられていた社。
遊郭関係者の信仰も篤かった。 『下街道①』
大和郡山の洞泉寺町の遊郭街跡
突当りの三階建てが旧川本家
源九郎稲荷神社(漢国神社境内) 《地図》
『奈良市の坂①』
妻恋神社(文京区湯島) 「説明板」
日本武尊と弟橘媛のゆかりの神社。
「妻恋明神社」(『江戸名所図会』)
妻恋坂 湯島3-1と3-2の間を西に上る。 《地図》
江戸時代の初めこの坂の南側に霊山寺があり、開山が大超和尚といった。
家光の時この地に移転し、大超坂と呼ばれた。
明暦の大火後、霊山寺は浅草に移り妻恋神社が坂の北側に移ってきた。
紋三郎稲荷(笠間稲荷神社) 《地図》
王子稲荷神社
「王子稲荷社」
王子稲荷の坂
岸町1丁目の王子稲荷の南側を南西に上る。《地図》
吉原大門
「新吉原」
吾嬬(あづま)神社 《地図》
祭神は弟橘姫命・日本武尊で、当地の「立花」の由来にもなっている。
『吾嬬神社』
走水神社 「説明板」
日本武尊東征物語ゆかりの神社。
弟橘媛歌碑「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
『横須賀市の坂⑨』
吾妻神社 「説明板」
弟橘媛の櫛を埋めた埋沢が梅沢に、小袖が流れ着いた海岸が袖ヶ浦とか。
『東海道(大磯宿→小田原宿)』
鼠坂
日本武尊がこの坂に至り、弟橘媛を追懐して寝られず、不寝見坂が鼠坂に転訛したとか。
『伊南房州通往還①』
君恋坂
東国征伐の帰途、日本武尊が自ら海神の生贄となった弟橘姫を
恋しく思い偲んだことに由来するという。
『甲州街道(関野宿→猿橋宿)』
杖衝(つえつき)坂
日本武尊が東征の帰り、疲労のあまり杖をついて上ったという、『古事記』に載る坂。
足が三重に折り曲がってしまったことから、「三重」という地名が起こったという伝承もある。
『東海道(四日市宿→亀山宿』)
芭蕉句碑 「徒歩(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」 「説明板」
季語のない句で有名。落馬の痛さのあまり、季語を入れるのを忘れたか?
「猿も木から落ちる」ならぬ、「芭蕉も季語を忘れる」か。
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