「髪結新三」
廻り髪結い 新三に仲裁役の面目を丸つぶれにされた源七親分は、 ある雨の晩、博打帰りの新三を深川閻魔堂橋で待ち伏せて、 斬り合いに末に新三を殺した。奥の左に閻魔堂が見える。 「髪結新三」(梅雨小袖昔八丈)を落語に仕立てたという 乾坤坊良斉は『今戸の狐』の冒頭にも登場する。 「梅雨小袖昔八丈」のもとになった白子屋お熊事件のお熊は、 裸馬に乗せられ市中引き廻しの上、鈴ヶ森で処刑される時に、 黄八丈の小袖を着ていたという。 圓生は「髪結新三」【YouTube】の冒頭で、 「それがために江戸の女たちは、黄八丈は嫌だ、忌まわしいものだと、 着なくなった。川柳に”反物にお熊いったん(一反)けちをつけ”、 当時、黄八丈は売れなかったという」と、演じている。
新材木町稲荷新道(中央区日本橋堀留1丁目) (落語散歩地図の①) このあたりは舟運で運ばれてきた商品の問屋街だった。 江戸橋のところが本材木町 右の幟旗は富籤興行が行われていた椙森(すぎのもり)神社で、 境内に冨塚の碑が立っている。落語『富久』 白子屋お熊がモデルの落語『城木屋』もある。 和国橋跡あたり(東堀留川跡・堀留公園) (落語散歩地図の②) ここからお熊さんは駕籠で富吉町の新三の長屋に向かった。 橋向いに和国餅の店、東側の葺屋町河岸に源七親分の家があった。 和国橋(萬橋)→親父橋→思案橋→日本橋川 親父橋跡あたり (落語散歩地図の③) 元吉原遊郭の創設者の庄司甚右衛門が架けた橋で、親父は甚右衛門の愛称という。 この南の思案橋も遊郭に「行こか、戻ろか」と思案した橋。 ここから西方(左)の江戸橋あたりまでが照降(てりふり)町(通称) 下駄屋と雪駄屋が軒を並べて、「照れ照れ」、「降れ降れ」と言い合ったので、 「テレフレ」町が本当だとか。 新三が番傘を買って忠七と相合傘で歩いて行った。 とうかん(とうか・稲荷)堀通り 「説明板」 《落語散歩地図の④》 湊橋から日本橋川下流方向 《落語散歩地図の⑤》 左岸が北新堀、正面は豊海橋 新三の「傘尽くしの名ゼリフ」(梅雨小袖昔八丈) 新三が本性を現わし忠七を突き倒して足蹴にし、 その場に置き去りして永代橋を渡って行ってしまう。 永代橋(隅田川) 永代橋 江戸名所図会 富吉町(江東区永代1丁目) 《落語散歩地図の⑥》 新三の住んでいた長屋があった。 閻魔堂橋跡(黒亀橋・富岡橋跡)あたり 《落語散歩地図の⑧》 閻魔堂(左奥の法乗院)と閻魔大王像は『探偵うどん』に記載 源七親分が新三を殺したところ。 この高速道路をくぐった左方の深川一丁目児童遊園のトイレの壁に、 上の芝居の絵が立っている。 児童遊園は東海道四谷怪談の三角屋敷跡でもある。 紀文稲荷神社(永代1-14) 「説明板」 《落語散歩地図の⑦》 結縁坂 紀伊国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表参道の231段の石段。 由来話は『熊野古道(紀伊路⑦)』 紀伊国屋文左衛門之碑(勝楽寺) 『熊野古道(紀伊路⑦)』 「紀文」はここ湯浅町別所の生まれという。墓も勝楽寺にあるそうだ |
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