「お藤松五郎」


 
あらすじ お藤は日本橋横山町の道具屋、万屋清三郎の世話で両国広小路水茶屋「いろは」を出させてもらい、柳橋の裏河岸に母親と二人で暮らしている。お藤は柳橋の芸者も足元にも及ばない評判の美女だ。

 ある夕暮れ方、夕立の雨宿りで顔見知りの菅野松五郎が傘を借りに来た。松五郎は元は武士で、年は二十六の苦み走ったいい男で、今は一中節の三味線弾きの師匠だ。

 お藤は松五郎を二階へ上げ、酒を飲み始める。そのうちに酔って来たお藤は、「・・・いつまでもあんな人の持ち物でいるのはいやだ・・・兄さんのお嫁さんになれたら・・・」なんて言い始めた。松五郎もお藤を憎からず思っているので、打ちとけてきた二人はやがて怪しい夢を結ぶ。

 そこへ清三郎が幇間の三八五蝶を連れてやって来る。お藤はなんとかして清三郎を連れ出そうとするが、清三郎たちは下の部屋で飲み始めてしまった。そのうちに二階へ三味線を取りに行った三八に松五郎は見つかってしまう。下に降りてきて、

松五郎 「傘を借りようと立ち寄ったら、おっ母さんに酒を勧められてつい、・・・どうもひどく酔って寝てしまったらしくて・・・」

清三郎 「・・・一中節の三味線弾き・・・ふん、男っぷりはいいやなぁ、芸はどうか知らねえが・・・盃を受けてもらおう・・・」と言って盃を松五郎の額めがけて投げつけた。額から血が流れてもじっとこらえていた松五郎だが、「端た芸人!」、「乞食野郎!」と悪口雑言を浴びせられ、ついに堪忍袋の緒が切れて、

松五郎 「乞食野郎とはなんだ。えらそうに旦那面するんじゃねえや。がりがり亡者!赤螺屋!でこぼこ野郎!」、二人はさんざんと罵り合ったあげくに出て行った。

 翌日、松五郎と約束した葭町佃長へ急ぐお藤は、米沢町の料理屋、草加屋で飲んでいた清三郎に見つかり、幇間に無理やり引っ張りあげられてしまう。しつこい清三郎はお藤を放そうとはしない。

 一方の、佃長で待っていた松五郎は、いつまで経ってもお藤が来ないので、使い屋を頼んで迎えにやるが、お藤の母親は清三郎からの使いと勘違いし、追い返してしまう。

 使い屋の話が腑に落ちない松五郎は自らお藤の家に向かう。途中、米沢町の草加屋にお藤が清三郎と一緒にいるのを見つけて、おかみに頼んでお藤を呼んでもらう。松五郎が下で待っているとは知らないお藤は、これ幸いと清三郎から逃れて裏梯子から店を出て佃長に向かった。

 おかみからお藤はあたふたと出て行ったと告げられた松五郎は、てっきり自分を避けて逃げ出したと勘違いする。なぜ自分を避けるようになったのかを問いただすために、松五郎はまたお藤の家に行く。今度は母親はまた清三郎がしつこくやって来たと思って顔も出さずに追い返す。

 すっかりお藤が心変わりしたと思い込んだ松五郎は浜町の自宅へ帰る途中で、佃長から戻って来たお藤にばったり出会い、言いわけも聞かずになぐりつける。

 そこへ通りかかった長左衛門頭(がしら)に止められて、その場は引き下がったものの、どうしても腹の虫がおさまらない。家へ帰って刀を取り出し、二階で寝ている母親に、相手を斬って自分も死ぬと陰ながら詫びをいい、取って返してお藤をはじめ五人の者を殺害するという、「お藤松五郎恋の手違い」というお噺。


    

 葭町(芳町・日本橋人形町):元和4年(1618)、各所に散在していた遊里を集めて葭原(吉原)と称した。陰間茶屋も多かった。会席料理の佃長(佃屋長七)、桜井、万久などは有名だった。この町には桂庵(口入れ屋・職業紹介所)が多かった。『百川』・『化け物使い』・『引越しの夢』などに登場。    

米沢町(東日本橋2丁目):両国広小路と薬研堀埋立地の間でもとは幕府の米蔵、矢ノ蔵(『紫檀楼古木』に記載)のあった場所。



お藤さん(鈴木晴信画)
浅草寺境内の楊枝店の柳屋の看板娘



両国橋の賑わい(「隅田川両岸一覧」)
手前が日本橋側(中央区)の両国広小路で、ここの水茶屋(掛け茶屋)で、
看板娘のお藤さんが愛嬌を振りまいていたのだろう。

納め太刀を持って対岸(向こう両国・墨田区)の
大山詣り』の石尊水垢離場へ行く人。『梅若礼三郎

真ん中の上方に見える小さい橋が今の竪川の一之橋で、
森のあたりが一の橋弁天で今の江島杉山神社。
右上の三角の建物は幕府の御船蔵。



両国夕涼之図

両国橋」・「両国橋」(「絵本江戸土産」広重画)



両国広小路跡(左側と対岸)・両国橋
昔は両国橋は少し下流に架かっていた。



旧跡両国広小路碑(両国橋(前方)の西詰近くの靖国通り)
北に入れば柳橋(神田川)だ。



玄冶店跡(人形町交差点北側)
岡本玄冶という医師の屋敷があったというが、歌舞伎「与話情浮名横櫛」で有名。
♪「お富さん」のほうがなじみ深いか。近くの葭町新道に佃長があったようだ。



浜町公園 《地図
江戸時代にはここあたりはすべて武家地で町名はなかった。
浜町公園あたりの隅田川沿いを浜町河岸と呼んでいた。



清正公寺(浜町公園内)
肥後熊本細川家の下屋敷地だった。


607(2017・12)




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